テストなどで少しでも躓くと、自分の頭を思いっきりグーで殴り「僕はバカだ!だからダメなんだ!」とパニックになる子を担任したことがあります。この子の場合は「できないこと=悪いこと」と信じ込んでいるようでしたが、本当にそうでしょうか。
孫泰蔵さんの「冒険の書」を尊敬する先輩に強く勧められ読んでいますが、少し読むと手が止まり考えさせられる本で、ちっとも読み終えません。やっと7割くらい読んだところですが、この本によると、「能力」の起源は、元を辿ると19世紀の統計学者フランシス・ゴルトンの「優生学」という学問にあるとされています。悪い遺伝が引き継がれないよう気をつけながら、良い遺伝だけを残して人間を改良することによって人類の進化を加速させようという科学らしいです。
そして、「能力」とは、元々は知的障がい児を見分けるために作られた知能テスト等でうまれた、ただの統計的な数字・概念と言いきり、それが本当に存在するかのように考えるだけでなく、「能力」を「人それぞれが生まれ持った特殊なもの」と考えたり「磨けばさらに高まっていくもの」と信じたりすることになった「信仰」を能力信仰と筆者は呼んでいます。
この強い信仰は、その教えを信じない人を変人扱いする様が、まるで他を寄せ付けない一神教のようだと筆者は表現します。そして、大多数はこの信仰の信者で、そんな社会の強いリクエストに応えるために学校は生徒に「能力」を身に付けさせるための訓練所となってしまったと。知らず知らずのうちに、私も能力信仰にガッツリハマっている信者の一人だと思います。でも、本当にそうかなあと能力信仰に疑問を感じた経験もいくつかあります。
冒頭の子が「僕はバカだ!ウワーン!」とパニックになるたびに、私は「バカ(彼にとってバカとはテストで得点できないこと)じゃなんでダメなの?」「バカでも愛嬌があっていいと思うけどなあ。」「バカだとしても笑顔が可愛いね。」「そんなにバカが嫌なら、努力してみたら?」「バカだからと泣き叫び、努力しないのはただのサボりじゃない?私は、あなたがバカでも好きだけど。」等、よく観察した上で、じっくり付き合いました。「あなたはバカではない」とは、決して言いませんでした。本当にテストができなかったから、それを言うと彼にとっての私(テストで得点できていないのに、バカではないという私)は、ただの嘘つき先生になります。それくらい、彼の「テストで高得点を取り、己の有能さを証明しなければならない」という能力信仰心は強いものでした。
数ヶ月かけて徐々にパニックは減っていき、机や椅子を投げて興奮していた彼も2年後にはすっかり落ち着き、できなさを受け入れた上で努力できるようになりました。それに伴い当然テストで得点もできるようになりました。その子が「卒業文集に先生のことを書いていますよ。」と6年生時に担任していた先生が教えてくださったので読んでみると『「あきらめたらそこで終わりだよ」と声をかけてくれた』とありました。(安西先生かよって思い、顔が赤くなりました。そんなこと言ったっけ?)
できないことが悪いことだ、テスト等で結果が出せないのは無能の証拠だ、そして、できないのは努力不足で自己責任だと信じ込みすぎると、今現在、何かができていない自分の状態を受け入れ難くなり、元気が出なくなります。子供に対しても、自分自身に対しても「今、できていなくたっていい。」「できるようになりたいと思っている子(自分)が健気で好き」「三日坊主を繰り返す様が、落語のようで人間らしくて好き」などと、他人に対しても自分に対しても、おおらかに幸せを感じながらコツコツと努力し、生活していきたいと思います。