人には夫々の適正がある。

音痴の私が声明を幾ら唸っても、
今からウットリするような域に達するのはムリな話。

草野球が甲子園を目指すより無理。

また、人は永い間に身体で覚えていくことがある。

法衣の着こなしこそ何となくサマになってきたが、
それでもイザとなると頭で覚えている通りに
身体がスマートに動かないのが途中入社(?)の悲しさ。

その点、寺院で育った人は呑み込みが速い。

まずは三パターンの荘厳重視とココを目ざすことには無理がある。

それでは教義探究か?
始めに開祖アリキ、は大したことはないが、
今までの自分の歴史がツイ邪魔をする。

然れば、もう少しハバを持たせるかと考えるものの、
セイゼイ資料が揃うと思われるのは近代まで。

それも少し都合の良くない資料は各寺の中。

宗派には関係なく、無難な処の仏教となると
原典解読がマズは無理。

こうして消去していくと、
途中入社組に適しているのは実践派。

荘厳も教義探究も怠るわけではないが、
素直に限界を認め、実践派の僧侶となることにした。

$私は僧侶になりました