梅雨明け以来お休みしていた旧東海道てくてく旅を、今日から再開した。
富士市の吉原宿まで到達した旧東海道てくてく旅は、
いよいよ箱根8里の山越えが間近に見えてきた。
箱根越えは、三島宿~箱根宿~小田原宿が4里(16km)ずつの道程で、
山上にある箱根宿は幹線鉄道機関へのアクセスが非常に悪いため、
三島から小田原まで一気に歩き通そうと考えた。
山越えとなるため、
三島を朝早く出立して小田原に日暮れ頃に到着という予定になり、
そのためには、
岐阜の自宅から三島へ出向くのは時間が遅くなってしまう。
そこで、
距離が24kmちょっとと1日の行程では短い
吉原宿~三島宿の徒歩行程と組み合わせて、
三島で宿泊し2日間で吉原宿から小田原宿まで歩くことにした。
宿場町3~4駅ごとに到達しては岐阜の自宅へ引き返した
これまでのてくてく旅とは違い、
今回初めて、宿場町に実際に宿泊することになる。
仕事休みが連休となる日で、
真夏の高温と天候急変を避けようと、
天気予報を確認しながら吉原~三島~小田原を旅する日を模索したが、
行こうと思っていた8月23日前後は、
三島でホテルの予約が取れず、
そして今夏の異常気象で1日中完全に好天の日がまったく無く、
結局8月中には行けなかった。
それならば、
9月の連休はどうかと天気予報をチェックしていたら、
ちょうど14・15日が秋晴れが続くと出ていて、
その連休に照準を合わせた。
仕事休みが17日まで四連休となり、17日までの範囲で考えていたが、
転職することになった先に16日に行く予定が出来、
14・15日となった。
三島のホテルも、14日に予約を取れた。
朝5:25、大きなリュックに宿泊対応の荷物を詰めて自宅を出る。
宿泊のため、スマホとデジカメの充電器は忘れずに持参した。
シャンプー・ボディソープやバスタオル、カミソリは、
ホテルに提供備品があるのをネットで確認し持参しなかった。
荷物を気にするあまり財布を忘れて出発してしまい、
自宅から150mほどで気付いて取りに戻ったが、
5:41のバスには間に合いJR岐阜駅へ出た。
そして6:22発の新快速電車で名古屋駅へ。
吉原までの行程を計画したときには、
浜松から静岡まで新幹線に乗ろうと考えていたが、
名古屋から新幹線に乗れば、
浜松から新幹線に乗るよりも1時間早く吉原宿に到着出来ると分かり、
三島のホテルにチェックインする時刻までに
確実に三島の宿場町に到達しようと、
名古屋で在来線を降り、新幹線ホームへ行った。
名古屋駅で、6:46発のこだまがあり、
新快速を降りてから3分しか接続時間が無いはずだったが、
とりあえず新幹線ホームへ急ぐと、
ダイヤの遅延か、6:46発のこだまに間に合ってしまった。
乗車したこだまは「N700系」で、
最近まで、乗れるチャンスがあるだけで嬉しかった車両だが、
「N700系」は、どうやら、
こだまからのぞみまで東海道新幹線の大部分に使われだした様子。
JR東海は、
「313系」在来線電車を管轄内すべての電化在来線で使用していて、
「N700系」も同様に新幹線でのスタンダード車両になるのかなと思う。
8時過ぎ、静岡駅で在来線に乗り換える。
岐阜の自宅を出たときには、長袖シャツを着ていても寒く、
ナイロン地の上着が欲しいと思ったが、
さすがに静岡は暖かく、真夏の服装の乗客も多かった。
電車が富士川の鉄橋を渡ったところで、
車窓から富士山の頂上が見えた。
旧東海道てくてく旅で初めてお目にかかる富士山。
「 頭を雲の上に出し~ 」 の歌の通り、
雲の上に頂上がちょっとだけ見えていたが、
見られて良かった。
そして吉原駅で在来線電車を降りる。
ホームの大きな階段を上がり、そのまま改札を出て気が付いた。
吉原本町まで乗る岳南電車の駅が無い と。
改札の目の前には「岳南電車→」と貼り紙があるが、
前回吉原宿でてくてく旅を終えたときに通った、
JRの跨線橋から一歩も出ない岳南電車吉原駅が見当たらない。
JR吉原駅はホームと線路の真上に駅舎があり、
駅舎からホームを眺めてやっと解った。
JR吉原駅ホームには西側にもうひとつ跨線橋があり、
岳南電車の吉原駅はそちらにつながっていたのだった。
しかし岳南電車吉原駅は、跨線橋の先に単独の出入口も持っていて、
吉原駅横の工場前の細道を歩いて、岳南電車吉原駅に着いた。
名古屋駅で乗車した新幹線がもう1本後だったら、
吉原駅で岳南電車に乗り換える時間が5分しかなかったが、
早めに吉原駅に到着出来たおかげで、
JRから連絡通路の跨線橋を渡らなくても岳南電車に間に合った。
しかし岳南電車の接続を待つ時間は15分ほどあり、
改札前で非常に充実している岳南電車のグッズを物色したりした。
岳南電車で吉原本町駅へ出て、旧東海道のてくてく旅が始まる。
吉原本町駅の西側は富士市内最大級の吉原本町商店街で、
岳南電車の線路の東側にも、少しの間商店街が続く。
「東木戸」跡を過ぎると川を越え、
工場地帯の中を通る。
道の両側は大きな工場が林立し、江戸時代の面影は皆無だが、
道筋は江戸時代のまま緩やかに曲がりくねっている。
そんな中に、「東海道左富士」の碑がある。
旧東海道は、ほとんどの区間は東西方向に走っているが、
ここの辺りは珍しく南北に走っており、
江戸から進んで来て、富士山の眺望がここだけは道の左側に見える。
それが吉原の名所として知られ、
歌川廣重の『東海道五十三次』にも描かれているのだが、
現在の左富士はといえば、
隣接する工場の屋根で眺望がまったく効かず、
全然見えない
独特の話し方で有名な戦場カメラマン・渡部陽一さんが、
ちょうどこの近くの出身なので、
ここは、渡部さん風に状況を言ってみよう。
ここは、ひだり富士の景色が、江戸時代以来、
有名な場所なのですが、現在は、
ひだり富士は、まったく見ることが、出来ません。
ちなみに私は、渡部さんそっくりに低音で発声が出来ることから、
職場の宴会にて渡部さんの真似を披露することがある。
旧東海道は、新幹線と国道1号線の高架をくぐり、
JR吉原駅の近くを通過する。
そしてJR東海道本線沿いに東へ進み、
踏切を越えてJRの南側へ移る。
JRの南側へ移ると、ようやく旧街道らしい風情となる。
JRの南側は、海が近いのに小高い段丘が連なり、
海に向かって上り坂が出来ている。
JRの南側地区は「元吉原」と言い、
もともと東海道の宿駅があった場所だが、
津波被害を受けて宿場町は内陸部の現・吉原に移った。
内陸部の現・吉原に東海道を引っ張ったため、
南北に走る区間から富士山が逆方向に見える現象も発生したのだ。
元吉原の段丘の北側には、
吉原から沼津までの帯状の広い範囲に、
「浮島ヶ原」という湿地帯が広がっていた。
現在は自然公園となっている場所のみに面影を残しているが、
東海道の宿駅が吉原~原間で3里(12km)も空いたり、
愛鷹山(あしたかやま)と東海道の間が広々としているのは、
低地の湿地帯で開発が遅れた証拠である。
富士市は、富士山から流れ出る水に恵まれているうえ、
浮島ヶ原周辺の広い低地もあり、
JRの線路北側に大工場が多い。
JR吉原駅と隣の富士駅は、ともにたくさんの構内線路と敷地を持ち、
工場地帯の貨物積み出し駅という印象が強い。
元吉原からしばらく、
旧東海道の右側には海岸沿いの段丘斜面に古くからの集落が、
反対の内陸に向かって低くなる左側には、
旧東海道沿いに新しい住宅と、
低い土地に工場や大型商業施設が立地している。
旧東海道を東へ歩いていくと、原宿に到達するまでに、
浮島ヶ原の滞留水を駿河湾に排出する排水路を何本か越えた。
原宿までの間、自然の河川は、
低地を掘り込んで造った田子の浦港に注ぐ川以外は1本も無かった。
旧東海道沿いには、
そしてJR東海道本線を越える。
踏切から2kmほど進むとJR原駅前で、
原の宿場町はJR原駅付近から東へ1~2kmの範囲となる。
原宿は浮島ヶ原南東部の古来うら寂しい土地だったところで、
東海道の道筋にクランク状の桝型は見られず、
近辺には宿場町以外に歴史ある集落もない。
旧東海道はまっすぐ延び、
宿場町の街筋には現代に建て替えられた新しい商家が建ち並ぶ。
街筋には、高札場の跡や、
原宿出身の名僧・白隠慧鶴禅師ゆかりの史跡がある。
旧東海道は、
東へ進みJRの踏切を越えて原宿の街筋から離れると、
道沿いに街路集落が取り付いて沼津へと続く。
道路沿いの市街地は沼津の宿場町の市街まで絶えることなく、
沼津市はかなりの人口が集積していると分かる。
しかし、江戸時代以来の主要街道とは言えども、
旧東海道沿いは商店が軒を連ねている訳ではなく、
商店自体がまばらで、生花店や自転車店などが点在するのみ。
時刻は午後1時前後になり、お腹が空いたが、
食べ物屋には巡り会えない。
和食処をようやく見つけたと思ったら、
「予約の方のみの営業とさせていただきます」と張り紙があり、
食事にありつけなかった。