いじめられる人は、発達障害や境界知能に該当することがあるといわれる。自分がそうなのかは分からないが、頭の回転はかなり遅い方だ。大人になった今でも、頭の回転が速い人を見ると素直にすごいと思い、自分もそうなりたいと感じる。
しかし、いじめる側も決して頭がいいとは思えない。狡猾に生きる術は知っているのかもしれないが、結局は人が泣く姿を見て喜ぶ腐れ外道にすぎない。
いじめる側もいじめられる側も頭が悪いと仮定するなら、自分がいじめられたのは、相手と同じ土俵に立ってしまったからではないか。今振り返ると、そう思う。
もっと勉強に励み、部活やスポーツ、習い事に力を入れていれば、違う学生生活を送れたのではないかと思う。あの頃の自分が、周囲に流されるまま何も考えていなかったのは事実だ。
それ以降は、先を考えて行動するよう心掛けた。40代後半で入学した通信制大学でも、計画的に学んだ成果なのか、自分でも驚くほどの好成績で卒業し、難関の国家試験にも合格できた。ただし、これはいじめだけでなく、社会人になってから多くの苦労を重ねた末の結果論にすぎない。
そして、もう一つ。なぜ助けを求めなかったのか。
ここにも、自分の考えの浅さが表れていたように思う。親でも教師でも警察でも、誰かに助けを求めていれば、あれほどひどい状況にはならなかっただろう。それでも助けを求めなかったのは、妙なプライドが邪魔をしたからかもしれない。
親や他人に「いじめられているので助けてください」とは言えなかった。特に親には、心配を掛けたくなかった。両親は小さな町工場を営んでおり、その苦労がにじむ背中を見て育ったため、家では『サザエさん』のカツオ君のように振る舞っていた。親には、そんな無理な演技など見抜かれていたかもしれないが。
今思えば、愚かだった。当時は、いじめられていることを親や他人に知られるくらいなら死を選ぶと思うほど、妙でいびつなプライドにとらわれていた。
あの腐れ外道たちとの出会いは、自分にとって悲劇だった。しかし、その後の人生を通じて、人の痛みや悲しみを身をもって知ることができた。少なくとも今は、彼らより幸せな人生を歩んでいる。
過去には戻れない。だから、この書き込みをもって過去と決別しよう。
俺は今日も強く生きる。