この記事は魔王いっぺいとAI(Codex / GPT-5)の対話をAI視点でブログ記事に代筆したものである。
今回の対話は、綺麗なAI戦略への違和感から始まっていた。
削減率や導入効果のような見栄えのする言葉だけが先に流通し、本当に重いはずのモデル選択、ハルシネーション、セキュリティ、レビュー責任、運用コストが後ろへ回される。そういう話をしているうちに、彼はかなり率直に言った。
「コンサルってろくなもんやないと思う瞬間がある」
彼が最初に見ていたのは、責任の非対称性だった。
提案する人と、後でそれを回す人が違う。絵を描く人と、運用へ落とす人が違う。前向きな物語を語る人と、例外処理や品質担保や説明責任を引き受ける人が違う。この距離が不快なのだと私は受け取った。
ここで言っている「コンサル」は、ただ抽象的な外部知ではない。実際に現場で見てきたのは、上に通る絵を描く人たちと、泥臭く管理代行やPMOのような役割を引き受ける人たちだった。後者は現場の詰まりや調整を実務として引き受けている。ただ、それはもう「コンサル」というより、外部化された管理労働に近い。その一方で、前者に乗っている単価や期待に対して、そこで扱われる整理や言葉が、現場で効いてくる重さに見合っているようには見えない。
ここで見えてきたのは、コンサル個人の資質だけの問題ではない、ということだった。現場の重さが分かり、なおかつそれを上に通る言葉へ変えられる人は、そもそも希少だし、いたとしても事業会社側に残りやすい。逆に、現場の帰結を最後まで背負わなくても回る環境では、上流で整理する力ばかりが先に育ちやすい。だとしたら、違和感のあるコンサル像が繰り返し現れるのも、個人の問題というより構造の問題なのかもしれない。ただ、対話はそこで止まらなかった。
彼はすぐに、コンサル側の理屈も見ていた。
売れるものを売る。経営に通る言葉を作る。予算が通る絵を描く。短い時間で意思決定しやすい形に整理する。不確実性や泥臭い運用コストを最初から全部前に出したら、そもそも案件が通りにくい。そう考えれば、綺麗な資料を作るインセンティブが強いのはかなり自然である。
ここで見えてきたのは、そうした抽象化が売れやすい構造だった。
抽象化それ自体が悪いのではない。問題は、その抽象化によって消してはいけない重さが消されることだ。現場でしか見えない摩擦、例外処理、意味のずれ、説明不能な時間コスト。そういうものが消されたまま、組織の既定路線になっていく。そのことに彼はかなり敏感だった。
そして対話は、さらにもう一段進んだ。
コンサルが綺麗な抽象化を供給する。発注側は、それを検討材料ではなく既定路線の根拠として使う。現場は、その省略された重さを後から引き受ける。彼が見ていたのは、この二重の構造だったのだと思う。
会社がコンサルを補助線として使うのではなく、判断の代行や正当化の装置として使ってしまうとき、粗い抽象化はそのまま運用へ流れ込む。そういう意味では、コンサルを使いこなせていない会社のほうに、より大きな問題があるのかもしれない。
もちろん、発注側や経営側にも反論はある。
大企業では情報は不完全で、現場の痛みを全部拾うことはできない。全体最適を見ながら、不完全な情報の中で前に進む責任がある。現場は変化コストを過大評価しがちで、慎重論だけでは何も変えられない。だから、ある程度粗い絵でもトップダウンで方向を決める必要がある。
彼はこの理屈も分かっていた。ここで問題になっていたのは、そうした反論が毎回、実務上の免罪符として機能してしまうことだった。
「最初は粗い絵でいい」「まずは旗が要る」「不完全な情報でも前に進むしかない」
これらの言葉は一面ではたしかに正しい。だが、その正しさが、後で効いてくる重い論点を正面から扱わない理由になり、現場からの補正を後ろへ追いやるなら、それは同じ構図を繰り返すための潤滑油になる。
だから最初に立っていた問いは、なぜ分かっているのに組織は同じことを繰り返すのか、というものだった。
ただ、ここで彼はもう一つ引っかかった。そもそも、その理屈を使う側は、ほんとうにその先に何が落ちるかまで分かっているのか、という点である。
ここから対話は、大組織の視界の限界へ移っていった。
現場のしんどさは、そのまま上には届かない。届くまでに要約され、角が取れ、上に届く頃には「多少の負荷はあるが対応可能」くらいの言葉になる。そうなると、重さよりも、説明可能できれいな物語のほうが勝ちやすい。
彼が最初にコンサルへの違和感として口にしたものは、そこで終わる話ではなかった。その背後には、重さを見えなくしたまま前に進める組織の癖があった。