こんばんは~照れ

しつこく平安時代の官職について調べております。

ブロ友様よりお教え頂いたのですが、「内大臣」も「令外官」なんですってね。

そして調べてみたら、
「内覧」も「令外官」らしいですよガーン

え、「内覧」って、
太政官から奏上される公文書を天皇に先んじて内見すること、
という”行為”じゃないの?!

と、混乱ガーンガーン

要は「内覧」とは
上記のような行為と、
その行為を行う役職と、
両方を指す言葉らしいですニヤリ

そんなの、知らんっつーのえー

「内覧」の宣旨は、
摂政・関白だけでなく、
大臣や大納言へも下されることがあったらしいのですが。

もっと正確にいうと
「内覧」の宣旨は
摂政・関白が置かれていない時に下されるもので、
摂政・関白には自動的に「内覧」の権限が付随していたそうです。

なるほど~びっくり
やっと解ってきました。

そして
摂政・関白というのは
この間お勉強したように
太政官の筆頭である「一上」より、さらに上の「一座」で。

太政官から切り離された存在であったので。
(太政官の審議に関われず、命令も出来ない。拒否は出来る)

太政官を掌握しようと思ったら、かえって「摂政」「関白」という役職は不都合だったらしいです。

そのせいか
これからどんどん『光る君へ』で出世していく道長は、
一条天皇の時代「関白」宣下を固辞し続けているそうです。


Wikipedia の官歴のところによると、
長徳元年(995年)5月11日に
「内覧」宣下のとき道長は
「権大納言」
「中宮大夫」
「左近衛大将」
を兼務している状態でした。
「権大納言」・・って
当然、筆頭公卿の「一上」ではないよね?ニヤリ

いろいろ不都合があったのか、
「内覧」宣下の約1ヶ月後には「右大臣」に転任。
同時に
「藤原氏長者」宣旨も下されています。

中関白家・道隆の死が
同年の4月10日。

”七日関白”の道兼の死が
同年の5月8日ですから。

道長に「内覧」宣旨が下されたのは、道隆の嫡男である伊周と熾烈な権力争いがあった末のこと、みたいです。
伊周は、同年5月5日に「内覧」止めとなっています。
(いつ「内覧」となったのか官歴にはないのですが、文中には同年3月にそれらしい説明あり)

その前年から「内大臣」だった伊周は、11日の段階ではまだ「権大納言」であった道長より上でしたが、6月に道長が「右大臣」となり逆転。
どちらが摂関となるか。
翌年の「長徳の変」で伊周が失脚するまで、陰湿な争いが続いたらしいです。

けど結局、伊周との政争との勝者となった道長は
すぐ摂政にも関白にも就かず、
「左大臣」として
「内覧」
「左近衛大将」を兼務。

一条天皇の在位中(~1011年)は、摂政にも関白にもなっていません。

これ、知らなくて意外でしたキョロキョロ
(不勉強でしたわ💦)

次代の三条天皇は
花山天皇の異母弟で、
父は冷泉天皇、
母は藤原兼家の娘・超子。
(一条天皇の母・詮子とは同母姉妹)

つまり兼家の孫で、
道長には甥にあたる帝でしたが。

道長との仲は悪かったらしいですキョロキョロ

三条天皇の東宮となったのは
一条天皇と、道長の娘・彰子との間に産まれた敦成[あつひら]親王でしたから、
おのれの孫に早く譲位させようと、圧をかけていたらしいですよガーン

三条天皇はいろいろ抵抗したようですが、眼病を患ったのを期に、道長へ「准摂政」を宣下。
(長和4年・1015年)

翌年1月29日
三条天皇から後一条天皇へ譲位された際に
「摂政」宣下となっています。

つまり道長は
孫である後一条天皇が即位したときに初めて「摂政」となっているんですね。

このとき三条天皇は、道長の娘腹ではない皇后の子・敦明親王を次の東宮とすることを条件に、譲位したといわれますが。
結果的に、三条上皇の没後、
敦明親王は東宮を自ら辞退ガーン
(当然、圧ありえー)

次の東宮には、後一条天皇の同母弟である、敦良[あつなが]親王が立てられました。
(のちの後朱雀天皇)

これで、ずっと続いていた
村上天皇の子である
冷泉天皇と円融天皇の系統が
交互に天皇となる”両統迭立”は解消されることとなります。

ご指摘ありまして、訂正させていただきます!
冷泉系と円融系の両統迭立の解消は、後三条天皇のときだそうです~間違った💦

花山天皇・三条天皇=冷泉系
一条天皇・後一条天皇・後朱雀・後冷泉=円融系

後三条天皇は、父は先代までと同じ円融系だけれど、母が冷泉系の内親王なので、ふたつの血が合わさって初めて解消となるみたいです。

気を取り直してグラサン
(以下、訂正前部分)

後一条天皇と後朱雀天皇は
道長の娘・彰子の産んだ皇子。

その次代の後冷泉天皇も
道長の娘・嬉子の産んだ皇子で。
(乳母のひとりに、紫式部の娘・大弍三位がいる)

ここに道長一族の栄華は極まるのですが。
(あ、当然ですが、後冷泉天皇即位の時には道長は既に他界しておりますてへぺろ)

後冷泉天皇は皇子に恵まれず、
次代は
異母弟の後三条天皇が即位することとなります。

(後三条天皇の母は三条天皇の皇女・禎子内親王、その母は道長と倫子の次女)


後一条天皇が即位した頃には
道長はもう晩年の域に入っていたようで。

摂政就任のわずか1年2ヶ月後には、その座を嫡男・頼通へ譲っていて。

太政大臣の宣下を受けたりしていまずが、実質は息子たちを指示して大御所的な権力を維持したようです。

にしても・・ビックリなことにWikipediaの官歴をみる限り、
道長は「関白」になっていないガーン

え~『御堂関白』なのに!?びっくり

これも知らなくてニヤリ

おのれの無知にビックリしましたわ💦

摂関政治の華である、藤原道長という人物は
父・兼家や、兄・道隆のように、関白にはならなかったという点でも、特異な人だったのかもしれませんね。

大河ドラマの準主役・道長くんが、どんな風にそんな道をたどるのか、
とても楽しみですウインク


以上
また長くなったので
この辺でてへぺろ


お読みいただき
ありがとうございました。