こんばんは~照れ

今日の『光る君へ』雑記は
”摂政と関白”など
官職について調べてみました。

この間の15回で
はて?(寅子のマネ2回目ニヤリ)
なところがまだあったもので。

それはこのシーンの↓
語りの、伊東敏恵アナウンサーが言っておられたセリフ↓

「2年が過ぎ、摂政・道隆の下、道兼は内大臣・・(続き省略)」

なんじゃそりゃびっくり
と思いましたよ。

このシーンの直前で
藤原公任の家で酔い潰れ居座り、公任に迷惑がられて、
道長が迎えに行って、
道長に励まされていた、あの道兼が!
2年後には「内大臣」ニヤリ

さらに驚いたのは

え~道隆って
内大臣のときに「関白」を兼家から譲られたのではなかった?

いつの間に「摂政」になったんだ?
ということえー

(後でよく観たら、冒頭のところで既に摂政におなりでしたてへぺろ)

関白から摂政になる場合もあるのですか?

そとそも内大臣からすぐ関白や摂政になれるものなのですか?

出てきていないだけで、兼家と道隆は、太政大臣や左大臣になっているのかしら?

なんか、考え出すとわからないことだらけ💦
(無知でスミマセンニヤリ)

不思議に思って、いつもどおり
Wikipediaで調べてみたら。

摂政・関白はいわゆる
「令外の官」(律令の規定に属さない官職)なので。

大臣などの官職とは必ずしも連動しないらしいガーン
(つまり内大臣でも関白にはなれるニヤリ)

従来は、わたしのイメージどおり太政大臣(もしくは筆頭大臣)が摂政・関白になることが慣例だったらしいのですが。

寛和の変(花山天皇の出家・退位)で一条天皇が即位した時
兼家は右大臣で。
その地位のまま、外祖父だからと、幼い天皇の摂政になったのだそうです。(↑当時7才)

このとき兼家(右大臣)の上には、左大臣・源雅信(←倫子さまのパパニヤリ)と
太政大臣・藤原実頼(←イケメン公任のパパ)
がいたので。
ふたりを飛び越えての就任キョロキョロ

これではいろいろ不都合だから。

兼家はわざわざ右大臣を辞職して、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)の序列から外れたうえで、「一座宣旨」という辞令を出さたのですってニヤリ

「一座」=宮中席次の最上位

本来の律令制では
宮中席次の最上位は太政大臣or左大臣で。
最高位の公卿の意の
「一之上卿[いちのしょうけい]」を約して
「一上[いちのかみ]」
といわれたそうなのですが。

この「一上」のさらに上の「一座」として、兼家は摂政となったわけですえー

摂政・関白は
令外の官なので。
太政官(いわゆる参議より上の公卿たち)を主導することは出来ないそう。

太政官のトップはあくまでも
「一上」
その外のひとつ上が「一座」

そうゆうことらしいですニヤリ

関白が左大臣や太政大臣を兼務している場合は、右大臣が「一上」を務めることもあったそうですから、さすがお役所。
意外と厳密に役割分担が制限されているものなのね口笛
教科書でも習いましたが、
摂政=幼年の天皇を補佐
関白=成人の天皇を補佐するのですが。

関白は、太政官から上奏された文書を天皇に先んじて「内覧」する権限や、拒否する権限はあったそうなのですが、
あくまでも決定権は天皇にあるので。
天皇との仲が親密でないと権力が機能しないこともあったそうです。

けど、摂政は違うびっくり

幼年の天皇から大権を任されるため、権限は関白より絶大ガーン
(知らなかった💦)

そのせいなのかな?

父・兼家から譲られ、
関白となった道隆は
わずか18日後に
摂政となっています。

(Wikipediaの官歴より)

そして父・兼家の死後すぐ
内大臣を辞していて。
(書いていないけど、一座宣旨があったのかな?)

2年後に関白に復帰えー
(一条天皇、14才?)

さらに2年後には
病のため関白を弟・道兼に譲り、出家、薨去。
43才でした。

道隆がドラマのように大権を好きに行使できたのは
関白でなく摂政であることが
大きかったのかもしれませんね。
以上
またキリがないので
この辺でニヤリ


お読みいただき
ありがとうございました。