こんばんは~
今日は『光る君へ』雑記です。
平安時代の紫式部を主人公とした大河ドラマも、早いもので13回を数えます。
正直、放送前は
平安時代には、他の時代ほど愛着がなかったので。
(推し人物がいない)
まぁちょっと軽く勉強するつもりでしたが。
平安時代もなかなか楽しい
意外と奥が深いというか。
特に最近は、
無官となってしまっているまひろの父・為時のせいで、
と思うからなのですが。
(注意:勝手な妄想です)
地方に根付いたのちの武士階級と、中央の貴族層との血縁関係については、仮冒(なりすまし)も多く、証明する手立てが少ないようですが。
三代前までは公卿を出した家でも、こんな風に没落してしまうのですからね。
為時みたいな貴族、たくさんいたのだろうな
地方に流れた貴族たちの実態って、どんな風だったのだろう?
そんなことが気になるのですが。
中央の貴族たちと、
地方を結び付けるものといえば、国司としての地方赴任ですよ!
為時も、のちに越前守として赴任しますから。
紫式部ことを”受領階級の娘”なんて云いますけど。
それ云ったら
倫子さまの”学びの会”を仕切っている赤染衛門も、
”枕草子”を書くことになる清少納言も、
”蜻蛉日記”の作者で、藤原兼家の妻のひとりである藤原道綱の母も、
恋多き女性として名を馳せた、和泉式部も、
みんな受領階級の娘
こうなってくると、”受領”も気になってくる。
まひろを、女房として雇ってくれなかった人たちは、
どの程度の経済状態の家なんじゃい
学びの会メンバー、しをりさんも、どの程度の家の人か、よくわからないのですが。
茅子さんはわかります。
(五節の舞姫に選ばれている)
権大納言家の供の家って、どの程度の身分なのかしら?
供だけでは、その身分や財力はピンからキリだろうけど、
家司なら?
と、思って調べてみたら。
兼家の家司として”平維仲”、
道長の家司として”藤原公則”、
このふたりにたどり着きました。
公則は、道長の近習だった人で、少し中央で勤めた後、多くの国の受領を歴任しています。
最終官位は従四位下・伊賀守。
対する平維仲は。
従二位・中納言と、最後は公卿に列している
彼の祖父(平時望)も、従三位・中納言だったらしい。
父方の血筋は良さそうですが、
母方は、地方郡司の娘だったそうで(いわゆる現地妻)
六位蔵人から始まり、中央官僚として少しずつ出世していったようです。
受領として各国を歴任してから、その手腕を兼家に気に入られ、家司となったそうで。
かなりの実務者だったみたい
桓武平氏高棟流だそうですから、やがて平清盛とくっついて、堂上平氏として栄達する、清盛妻・時子やその弟・時忠のご先祖です
このように、各国の受領を歴任しながら、摂関家クラスの家司も務める人たちのことを、”家司受領”というらしいですよ。
藤原公則は、道長との個人的なコネを感じますが。
(近習になった経緯は不明)
平維盛の叩き上げ感はスゴい
これくらいの実力がないと、家名は維持できないものだったのかもしれませんね。
憎たらしい顔して
役者さんには悪いけど、人相悪すぎ。イヤ、演技が素晴らしいと云うべきか。
平安時代でも、どうしようもない上限はあったにせよ、実力主義の面もあったんだな~と、ちょっと勉強になりました。
”家司”といえば
今までは
『なんて素敵にジャパネスク』の守弥でしたが
彼の活躍はこの”家司”とかなり違うわね💦
Wikipedia のよると”家司”は、摂関家の家政機関をつかさどっている人たちのうち上層部の、別当・家令などを指すらしいです。
難しい
難しいけど。
ひょっとして、この家政機関とやらが、のちの鎌倉幕府とか、ひいては江戸幕府とかの、幕府機関の原型・雛形となったのではない?
なんかそう聞いたことある気がする
小難しいことに興味を持ってしまって。
もはや頭のなか収集つきません💦
これくらいにしておきます。
平安時代も、なかなか世知辛い世であることだけは、よくわかりました
なんか脈絡ない記事になりましたが。
最後までお読みいただいた方、
ありがとうございました。
おやすみなさい💤