「王政復古

  慶応三年十二月九日の政変」

井上 勲  著    中公新書   1991年


 

こんばんは。

 

更新に2日も掛かりました。

週末は時間はあるのですが、いろいろうまくいかずニヤリ

 

やっと最終章である第6章&結語を読み終わりました。

 

先日の記事では、薩摩藩主・島津忠義が上洛への決意を示したところまで書きました。

その後、忠義は三千の兵を率いて上洛の途につき、途中、三田尻にて長州藩世子・毛利定弘と会談。九月に挫折した第一次についで、第二次出兵同盟を結びました。

定弘はこの前に、安芸藩世子・浅野長勲と新湊で会談しており、間接的ではあるけれども三藩の同意が成され、ここに第二次薩長芸三藩出兵同盟が成立。

六ヶ条が約定され、宮中政変と、西国諸藩の連合体の形成を目指しました。

 

このあたりは第4章です。

同盟がなり、島津忠義の薩摩兵は上洛。

遅れて浅野長勲も兵三百を率いて上洛。

長州は後援の部隊として、尾道で待機しました。

 

この同盟の第六条では、天皇の動座先として西宮が想定されているんですよ。

知らなくてビックリでしたびっくり

宮中政変が成功したとしても、その後の幕軍との戦いの長期化を見込んで、天皇の動座を想定した後方の確保はとても重視されていていました。長州はその中核を担当。

まだ長州は、正式の勅で復権を果たしていませんしねニヤリ

(正式な官位復旧の沙汰書は十二月八日。王政復古の前日)

 

島津忠義が西郷隆盛らを供に京へ到着したのは、十一月二十三日。

その前の十五日に大久保利通が先に入京。

(坂本龍馬が絶命した日でもあるキョロキョロ

二十八日、浅野長勲が入京。

二十九日、長州藩兵八百が摂津打出浜(芦屋)に上陸。西宮に陣を布きました。

(芦屋や西宮は広島藩じゃないですよね~このあたり他にも諸事情ありそうですが、ここではわからずえー

 

さて、ここからが最終章、第6章です。

大政奉還後の慶喜側の事情から書き始められています。

 

慶喜の大政奉還の上申を朝廷が受理したのは、十月十五日でした。

朝廷は、公儀政体創設の担い手として期待の高い8名の大名、徳川義勝(尾張)・松平慶永(越前福井)・島津久光(薩摩)・伊達宗城(伊予宇和島)・山内豊信(土佐)・浅野茂永(安芸広島)・鍋島斉正(肥前佐賀)・池田茂政(備前岡山)を、特に名指しで上洛を命じました。

他に、十万石以上の大名にも上洛を命じます。

 

慶応三年当時、十万石以上の藩は三卿を加えて五十四。長州を除いて五十三。

これらのうち譜代・家門はもちろん、外様ですら、まだ将軍家へ忠誠を持つ藩は多かったのですびっくり

数だけみれば、大政奉還後の政体でも、徳川が支持を得て主導権を握れる可能性はありました。

だからこその大政奉還だったのですがキョロキョロ

 

けれど、諸侯らはあまり上洛しませんでしたガーン

上洛の期日は十一月末日。

徳川義勝、松永慶永は上洛したものの、山内豊信はなかなか上洛しませんでしたえー

期日までに上洛を果たした諸侯は十六名ガーンガーン

大半が畿内の小藩という始末えーん

大政奉還がもたらしたもの。

それは無政府状態と、それにともなう混迷でしたニヤリ

 

政権を返された朝廷は困惑のうちにありました。

摂政・二条斉敬や中川宮朝彦親王は徳川への大政再委任を望みました。

近衛・鷹司・大炊御門らの上級廷臣は、太政官八省の最興案を提出しました。

朝廷もそれなりに動いたのですが、諸侯の反応はほとんどありませんでしたガーン

自信を失った、左大臣・近衛忠房、右大臣・一条実良は自らその官を辞任。

二条斉敬すら、たびたび辞意を表明するありさまでした。

みんな来るべき新しい政体で、おのれの様々な特権が剥奪される可能性に怯えたのだそうですえー

 

動揺は、倒幕の密勅に関わった、3人の公卿にも起きていました。

天皇の外祖父である中山忠能は、応じて上洛した、徳川義勝と松平慶永に期待をかけ、徳川慶喜の悔悟を挙証させようとします。

正親町三条実愛と中御門経之は、辞意を表明した左右大臣の座に同志の廷臣を送り込めば、平和裏に王政復古が成就すると考えました。

討幕の計画は着実に進んでいるというのにキョロキョロ

 

大久保と岩倉は3人の説得につとめました。

説得には威圧が加わり、やがて薩長芸藩の兵がそれぞれの上洛、後援につきますびっくり


そんな中、いよいよ十二月なりました。

一日、3名の廷臣(中山・正親町三条・中御門)はようやく政変決行の決意を固めます。

 

軍事力を発動して、御所の内外を遮断。

長州藩主父子・岩倉・三条実美らへの処分解除の布達。

摂関・幕府などの廃絶の布達。

三職(総裁・議定・参与)の制の設置とそれにともなう新任人事。

徳川慶喜に対して辞官・納地の内命。

(この時点では官位の一段階下、直轄領半分の返納)

松平容保・定敬への帰国を命令。

 

これが王政復古の計画の骨子でした。

 

あとはいつ決行するか。

当初、決行は十二月五日とされました。

兵庫開港が七日に予定されており、外国船が動くので、それより以前が望ましいとされたのです。

また、それまでに山内豊信の上洛が見込まれていました。

土佐は、薩長に味方の兵力として期待されていたのです。

 

ところが豊信は藩論をまとめることが出来ませんでしたニヤリ

いや、あえてまとめなかったとみることも出来ます。

状況は複雑でしたガーン

いくらおのれの心情的には徳川を擁護したくても、武力討幕が成功すれば、その後の政体でおのれは薩長に水をあけられることになる。

そんなことは豊信には我慢なりませんでしたムキー


京にある後藤象二郎は、そんな藩主の性質をよく知っていました。

十二月二日、後藤は西郷・大久保の来訪を受けます。

そして王政復古の政変の計画と決意を告げられましたびっくり

このとき後藤は、大久保の言葉を借りれば「雷同」し、すぐさま参加を表明しました。

 

ところが豊信はまだ上洛していませんキョロキョロ

藩主の了解を得ずに勝手に参加すれば、後藤の進退にかかわります。

決行日を五日から八日へ延期するよう、後藤は懇願します。

西郷・大久保はこれを受け入れました。

 

後藤はさらに八日から九日の延期を画策して、いちばん動揺の深い同志廷臣である中山忠能にゆさぶりをかけます。豊信の上洛がさらに遅れそうだったからです。


そのうえ松平慶永に面会し政変計画を告げ、それとなく慶喜の耳にも入るように仕向けます。

大政奉還を進言した人だけあり、政変後の人事に慶喜の参加を望んでいたのですキョロキョロ

 

悩んだすえ松平慶永は、後藤から聞いた翌日(六日)夕刻、家臣の中根雪江を二条城へ行かせます。徳川慶喜は中根から薩摩の政変計画を聞きましたびっくり

けれど、慶喜は動きませんでしたガーンガーンガーン

政変の計画が事実だったとしても、御所を固めるために兵を動かす根拠が、政権を返上した今となってはその権能を持っていない、正統性の根拠が薄弱である、と判断したのです。

 

薩摩の政変計画を頓挫させようとすれば、薩長のそれと同じように、武力による抗争を覚悟し、場合によっては天皇を、大阪なり彦根なりに動座させ、こちらは東国諸藩を連合して、江戸を拠点に西国諸藩と対峙せねばなりません。

これほどの計画を決意することは、慶喜には出来ようがありませんでしたキョロキョロ

(何故かは・・第1章を振り返るとわかるかな?てへぺろ)

 

八日の豊信の上洛が見込めず、後藤は計画の延期を九日に、と粘ります。

この後藤に、中山は味方したかのように、九日の延期を支持します。

理由は、乗輿の準備が整っていなかったからニヤリ

(動座するときに天皇が乗る輿のことです)

西郷と岩倉は反対し、八日にこだわりました。

計画に大して支障はないとはいえ、士気にかかわる。と。

岩倉が中山へ絶縁の文を書くまでになりましたが口笛

最終的に中山の意見が通り、決行は九日となりました。

 

なかなか一筋縄にはいかなかったのね~ニヤリ

 

前日の八日。

長州処分問題が議題の朝廷会議がありました。

西宮に陣を布いている長州兵のこともあり、この問題は緊急を要するものでした。

摂政・左右内大臣・議奏・武家伝奏・国事用掛らの廷臣が参内しました。

諸侯らにも諮問させようと、参内が促されました。

徳川義勝・松平慶永・浅野長勲が参内しました。

ほかに諸藩の重臣が二百名ほど参内しましたびっくり

慶喜、松平容保、定敬、老中らは病を称して参内しませんでした。

島津忠義も滞在先の相国寺に籠って参内せず、明日に備えていました。

 

山内豊信がようやく入洛して妙法院に入ったのは、八日の夕刻でした。

後藤から政変の計画と決行を報告され激怒し、島津を罵ったといいます。

同時に、後藤が進言し、豊信が慶喜に進言した大政奉還後の公儀政体の創設は、もはや可能性乏しいという事実を思い知ったでしょうガーン

 

朝廷会議はいちおうの結論をみて、長州の完全復権が認められました。

また処分されていた、前関白の九条尚忠や岩倉具視の還俗も許され、大宰府にあるいわゆる「七卿落ち」の廷臣や、他の政変で処分された廷臣たちも復権しました。

 

薩長の計画は着々と進みます。

三卿の職に新任する予定の公卿たちに、参内が要請されました。

計画首謀の4名をのぞけば7名。


総裁

有栖川熾仁親王

議定

仁和寺宮純仁親王

山科宮晃親王

参与

大原重徳

万里小路博房

長谷信篤

橋本実梁

 

同時に八日夕刻には、薩長土芸尾越五藩の藩士がそれぞれ2名、召致を受けて岩倉の屋敷に参集しました。

藩を代表しうることが出来て、かつ政変に同意することが見込まれる藩士の氏名が、あらかじめ内示されましたニヤリ


岩倉は藩士らを前に、五藩の勤皇を讃え、五藩を頼みにしていると語り、すでに内勅が下っていることを強調。

王政復古は天皇自身の意思であることを説き、五藩の大名に参内と兵員の出動を命ずる沙汰書を手交しました。

 

布達された令文には、当該の藩が警備する御所の場所だけが記されていたそうです。

薩摩以外の四藩は配備の全容は知らされていませんでした。

天皇の御座所は各藩が十名ずつ兵を出して警護。

尾張と越前は廷臣の屋敷を警護。

安芸藩は朔平門と准后門。

土佐藩は公家門と南門、蛤門。

薩摩は観台所門、日門、公家門前。

乾門はもともと薩摩の警備担当でした。

 

交戦があるとすれば、会津・桑名が守る、蛤門と公家門。

蛤門は土佐が、公家門は薩摩が接収する予定でしたびっくり

 

この配備。

西郷・大久保・岩倉でねられたらしいですが。

薩摩以外の四藩は、薩摩から動静を監視できるように配備されていたそうですよガーン

薩摩藩兵は御所内にも配備され、通行の廷臣・大名・藩士を監視するようになっていました。

 

朝廷会議が終わらないまま、八日の夜が更け、九日がきました。

午前八時ごろ、ようやく会議が終わり、出席の廷臣たちが御所を出始めます。

徳川義勝・松平慶永・浅野長勲はそのまま残りました。

岩倉が参内を急ぎます。

西郷隆盛に率いられ、薩摩兵が出動します。

桑名藩兵はすでに去っていませんでした。

土佐兵の出動は遅れていて、公家門の警備には代わりに薩摩兵がつきました。

安芸・尾張・越前の兵も、それぞれの位置につきます。

 

朝の時点で、山内豊信はまだ河原町の藩邸にいました。

兵の出動を、豊信は酒を飲みながら黙認しましたニヤリ

 

蛤門の会津兵は、薩摩兵がきたのを藩邸へ知らせ、藩邸は撤退の指示を出しました。

会津兵は営所を掃除してから、遅れてきた土佐兵へ引き渡したそうですガーン

 

正午過ぎ、島津忠義が参内。

遅れて山内豊信が酔って参内てへぺろ

(司馬遼太郎の「酔って候」だ~ニヤリ)

 

参内の廷臣と大名は小御所に列座します。

王政復古が宣言されましたびっくり

 

摂政・関白ならびに幕府の廃絶と三職の新設。

内覧・勅使御人数・国事用掛・議奏・武家伝奏ならび守護・所司代、五摂家・門跡を廃絶することの宣言。

二条斉敬ら二十一名の廷臣の参内停止処分。

そして、三職の任命。

 

総裁については先に書きました。

議定は、先に書いた2名の廷臣の他に、中山・正親町三条・中御門3名の廷臣、徳川(尾張)・松平(越前)・浅野(安芸)・山内(土佐)・島津(薩摩)といった五藩の大名、合計10名。

参与は、先に書いた4名の廷臣に、岩倉具視。五藩の藩士が各3名。

議定である藩主の推薦で決まることとなりました。合計20名。

島津忠義は、大久保・西郷・岩下方平を指名。

土佐は後藤象二郎ら。安芸は辻将曹ら。越前は中江雪江ら。

他の人名は残念ながら紹介されていませんでしたキョロキョロ

 

こうして王政復古が成りました。

すったもんだ、いろいろあってニヤリ

歴史って・・・やはり複雑。

当然だけどドラマはドラマだわニヤリ

これに諸説ありが加わるのですから。

お勉強もなかなか大変ですてへぺろ

 

結語の章も、なかなか興味深くて触れたかったのですが、長すぎるので割愛します。

 

王政復古、いろいろ曖昧だったのがかなりクリアになりました。

書きがいはあるのですが、時間がかかりすぎて睡眠不足だ~えーん

 

最後まで読んでくださった方、

長文なのにニヤリ

お読みいただき、ありがとうございました。