「歴史のなかの女たち

        名画に秘められたその生涯」

   高階秀爾 箸    文春文庫  

   1984年刊(文庫版)

   1978年刊(単行本)  

 

改訂版

岩波現代文庫↓

 

 

こんばんは。

 

この本で紹介されている女性の中から、エリザベス1世に近い世代の方をシリーズで書かせていただいているのですが。

 

前回までの①~④は、すっかり

”エリザベスの時代のフランス宮廷ゴシップ記事”となってしまって。

なんか恐縮ですキョロキョロ

 

この本以外のネット情報(主にwiki)もふんだんに付け加えてしまったので、もうエリザベスなんかどっかいっちゃった状態ですがてへぺろ

この本で紹介したい人&肖像画がまだあるので。

 

強引にあと2人書かせていただきます照れ

エリザベスとは少し関係はあるけどあまりない、彼女の親たち世代の人です。

 

親たち世代の人、1人目はこの方↓

肖像を観ただけで解った人!
スゴイチュー

西洋史通なの間違いなしウインク

カラーでもう一度。

   ”真珠のようにつつましく”

  「イザベラ皇妃」

  ティツィアーノ

  プラド美術館

 

プラドで観ました照れ

高階さんが書いておられるとおり

真珠のような深い美しさに満ちた画でした。

 

彼女の名は、イザベラ・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン。

ポルトガル王マヌエル1世↓とその王妃マリアの長女として産まれました。

父マヌエル1世は、分家の6男だったにもかかわらず、兄たちが亡くなり、先王ジョアン2世に嫡出の男子がいなかったため、先王の王妃である姉や、自身のイトコであるイサベル1世(カスティーリャ女王・カトリック両王)の後押しを受けて王となった、「幸運王」とよばれる人です。
 

そういった出自のせいか、彼はなかなかの野心家だったといわれていてニヤリ

婚姻政策を頑張っているのです口笛

 

マヌエル1世は生涯で3回結婚して、3人の王妃がいるのですが、1人目と2人目は姉妹。3人目はその姉妹の姪でした。

 

1人目

イサベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ↓

イサベル1世の長女。

王子ミゲルを産むも産褥死。

ミゲルも2才で早世。

 

2人目

マリア・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ↓

イサベル1世の三女。

10人もの子女を産むが、夫マヌエル1世より先に死去。

今回の主人公イザベラの母。

次王・ジョアン3世の母でもある。

 

3人目

レオノール・デ・アウストリア↓

イサベルとマリアの姉妹である、

イサベル1世の次女ファナの娘。

父はハプスブルク家の

ブルゴーニュ公フィリップ3世

(フィリップ美公)。

王女をひとり産むが、夫のマヌエル1世に先立たれ、

フランス王フランソワ1世と再婚。

 

3人みんな、カスティーリャ女王イサベル女1世↓と、アラゴン王フェルナンド2世(カトリック両王)の娘か孫びっくり

ちなみに、イサベル1世の4人の娘のうち末っ子が、イングランド女王になったメアリー1世(エリザベス1世の異母姉)の母、キャサリン・オブ・アラゴン↓ですニヤリ

ポルトガル王家は歴史的にスペイン王家との繋がりが深く、血縁関係があるのは昔からずーとですが、この時はさらにイベリア半島に統一国家を作る!という両家の野心がありありだったようです口笛

 

結果的には、イサベル1世の血筋でスペイン王家であるフェリペ2世がポルトガル王を兼ねて、イベリア半島の統一はポルトガル王家が男系で成し遂げることは出来なかったのですがキョロキョロ

女系では出来た!口笛

 

なぜならフェリペ2世を産んだカール5世の皇妃が、今回の主人公、

ポルトガル王女イザベラだからですチュー

(遠回し過ぎ? 最初に書けって・・・えー

 

イザベラは時代の寵児、

神聖ローマ皇帝カール5世↓に嫁ぎます。

この時代はこの男を軸に回っていた、と高階さんは書いています。

それくらいキーパーソンな人。

彼はその血筋ゆえに、時代を担わなくてはなりませんでしたキョロキョロ

 

すべてはこの人のせいえー

「幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」とのたまって、
ハプスブルク家の領土を拡大させた、マクシミリアン1世↑

カール5世のおじいちゃんです。

 

「中世最後の騎士」ともいわれ、武勇に優れ、女性(妻)を愛し守った伝説的な色男ニヤリ

 

この人があっちこっちに孫たちをバラまいたゆえに、日本人には容易に覚えられない、ただでさえ複雑なヨーロッパ諸王の国際結婚がさらにややこしくなりましたニヤリ


自身は最後のブルゴーニュ公女マリー(美しき姫君)↑と結婚し、

現代のフランス・ブルゴーニュ地方だけでなく、ロレーヌ地方、ネーデルランド(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)などは、マリーの死後、長男のフィリップ美公↓に受け継がれました。

「美しき姫」から産まれた王子はやはりイケメンだったチュー

 

このフィリップ美公が、イサベル1世(カトリック両王)の次女ファナ↓と結婚。

ファナとスペインを共同統治した?ので、フィリップ美公は通史ではスペイン王フェリペ1世にも位置づけられています。

(この辺りは長くなるので割愛ニヤリ)

 

フィリップ美公とファナとのあいだに産まれた子は6人。

驚くべきことに全員成人して結婚しているびっくり

 

長女が、先ほど出てきたマヌエル1世の3番目の王妃、レオノール。

マヌエル1世に先立たれた後にフランス王フランソワ1世と再婚しているので、

私が①で書いた、ディアヌがアンリ王子に熱愛されていた頃、フランソワ1世晩年の王妃はこの人びっくり

フランソワ1世との間に子供はいませんでした。

 

長男が神聖ローマ皇帝カール5世。

(スペイン王としてはカルロス1世)

この回⑤の主人公、ポルトガル王女イザベラと結婚します。

 

次女イサベル↓は、デンマーク王クリスチャン2世に嫁ぎます。

この人もなかなかキレイな人。

次回に書く王女の母なので、ぜひご記憶をてへぺろ

 

次男はのちの神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世。

兄の跡を継いで、ハプスブルク家の領土のうち、オーストリアを中心とする地域を受け継ぎます。

④の主人公、エリザベートのおじいちゃんです。

ハンガリー・ボヘミア王女のアンナ王妃との間に4男11女をもうけました。

 

三女がマリア・フォン・エスターライヒ↓

この方はハンガリー・ボヘミア王であるラヨシュ2世(フェルディナント1世の王妃アンナの弟)に嫁ぎます。
 

ラヨシュ2世がマリアと子を持たぬまま亡くなった後、ハンガリー・ボヘミアはマリアの兄であり、ラヨシュ2世の姉アンナの夫でもある(いわゆる二重結婚)神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世の領土となりました。

 

四女がカタリナ・デ・アウストリア↓

イトコのポルトガル王ジョアン3世に嫁ぎます。

ジョアン3世は例のマヌエル1世の2番目の王妃マリアの子。

つまり、イザベラの兄。

ジョアン3世とマリアの間には9人の子を産むが、7人が夭折。

唯一の王子ジョアン・マヌエラは、マリアの姪ファナ(カール5世とイザベラの娘)と結婚し、セバステイァン1世をもうけるが、16才で早世。

セバステイァン1世も21才で未婚のままモロッコで戦死しました。


気が付きました?

ポルトガル王家、ハンガリー・ボヘミア王家と、兄弟姉妹が入れ違いのように結婚しているびっくり

いわゆる、これが二重結婚。

ハプスブルク家のお家芸でした

 

以下、復習整理ニヤリ


まずポルトガル王家との婚姻。

ジョアン3世の妹イザベラがカール5世に嫁ぐと同時に、

ジョアン3世はカール5世の妹カタリナを王妃に迎えました。

 

次にハンガリー・ボヘミア王家との婚姻。

フェルディナント1世がラヨシュ2世の姉アンナを王妃に迎え、

翌年、ラヨシュ2世はフェルディナント1世の妹マリアを王妃に迎えました。

 

幸いなるオーストリアは

その言葉のとおり

婚姻により領土を拡大していったんですよびっくりびっくり

 

孫たちだけでなく、マクシミリアン1世は、

25才で亡くなったブルゴーニュ公女マリーとの結婚で得たふたりの子にも二重結婚をさせていますニヤリ

 

母の跡をついでブルゴーニュ公となったフィリップ美公と、その姉マルグリット。

彼らはカトリック両王によってひとつになったスペイン王室と縁組しました。

 

イサベル1世とフェルナンド2世(カトリック両王)には4人の娘の他に世継ぎの王子は1人だけ。

その大公ファン・デ・アラゴン・イ・カスティーリャに

フィリップ美公の姉・マルグリットは嫁ぎ、

フィリップ美公はファン大公の妹・ファナと結婚しているのです。

 

けれど大公ファンは19才で病死。

カトリック両王の跡継ぎには長女のイサベルがなりましたが、

このポルトガル王マヌエル1世の1人目の王妃は

前述どおり産褥死してしまうので。


そのため、フィリップ美公の妻である、次女ファナが王位を継ぎ、

その長男カール(後のカール5世)のところに、スペインを含めた広大な領土が転がってくることになるのですチューチュー

 

マクシミリアン1世の時は、現・オールトリアくらいしかなかったハプスブルク家の領土が

(厳密にはちょっと違うけど)

ブルゴーニュ公女マリーと結婚したことにより、

ブルターニュ地方だけでなく、ロレーヌ地方、ネーデルランド(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)などを手に入れ、

フィリップ美公とファナの結婚によって、

その長男のカールが

スペイン(カスティーリャ&アラゴン)、ナポリ・シチリア王国(イタリアでアラゴン王国の支配下にあった)なども継ぐこととなりました。

 

そのカールは、ポルトガル王女イザベラと結婚して、

息子フェリペ2世の代にポルトガル王位を継承。

(二重結婚のカタリナとジョアン3世の、子と孫が早世したため)

 

カールの弟フェルディナンドは、妻の弟であるラヨシュ2世がオスマントルコとの戦いで敗死したため、ハンガリー・ボヘミアを手に入れて。

(二重結婚のマリアは、ラヨシュ2世との間に子がいなかった)

 

スゴイですよね~びっくりびっくりチュー

ハプスブルク家。

 

地図も系図も載せていないので、

読んでいる皆様にはわけわからないと思いますけどてへぺろ

(ひたすら自分の頭の中を整理していたらこうなったえー

 

とにかく。

広大な領地を手に入れたため、フランスからは敵視されて。

エリザベス1世の時の記事にも書いた

フランス・ヴァロア家vsハプスブルク家となって。

イザベラの夫、

神聖ローマ皇帝カール5世を軸に

ヨーロッパが揺れに揺れるのです。

 

系譜だけで、スゴく長くなりましたがニヤリ

(ここからようやく高階さんの本の話)

 

カール5世とイザベラはとても仲睦まじい夫婦だったそうですよ照れ

 

ふたりはもちろん”政略結婚“ではあったのですが。

高階さんは書いています。

”この時代、政略結婚は少しも珍しいことではない。

珍しいのは、政略と打算の結婚が、やがて愛の結び付きに変わっていったことである”と。

 

ふたりは性格が合っていたみたいですよウインク

カール5世は宗教心が厚く、私生活はきわめて清潔で、避難の余地のない生涯を送った人だそうです。

同時代のライバルであるフランソワ1世やヘンリー8世とは比べものにならないらしい口笛

(まぁレベル違い過ぎるでしょキョロキョロ)


Wikiによると、ちゃっかり庶子も複数いるらしいけどてへぺろ

有名なのはレパントの海戦の英雄、ドン・ファン・デ・アウストリア。

エリザベスの記事で書いたわチュー

 

それはさておき。

イザベラも、つつましやかで、質素で、我慢強い性格であったそうです。

食事も皇帝である夫がいないときは、ごく簡単なものだったとか。

”顔はどちらかと言えば痩せて面長で、色は白く、くっきりした弧を描く眉、憂いに包まれた優しい目とを持っていた。・・中略・・・・全体としては高貴な、落ち着いた相貌であった・・・”

ある歴史家が述べているという、イザベラの容貌の記録。

 

ティツィアーノによるこの肖像画をみれば、誰もがこの記述が、お世辞ではない、事実だ!と確信すると思います照れ


この肖像でイザベラは本を手にしていますが、読書を好み、芸術を愛する知性と教養を兼ね備えていたそうです。

高貴な産まれであるのに、高慢なところは少しもない。

落ち着いた気品と、人を惹きつける優しさに溢れていて。

出産のときには長時間うめき声ひとつをあげず、我慢強かったとか。

(日本の武士の妻のようだ、と高階さん書いています)

 

ふたりの間には3男2女が生まれましたが、成人したのは3人でした。

 

フェリペ2世は、スペイン・ポルトガルの王に。

長女マリアは、イトコである神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇后に。

次女ファナは、カール5世の妹カタリナが産んだポルトガル王太子、ジョアン・マヌエルに嫁ぎました。

 

3人の子にはまた、それぞれ運命が待っているのですが、幸か不幸か、イザベラは子供たちの行く末を知ることはありませんでしたキョロキョロ

 

「男ならだれでも結婚したくなるような女性」といわれたイザベラ。


理想的な夫婦だったふたりの生活は長く続かず、イザベラは第4子を懐妊中に流産し、亡くなってしまいます。

後のフェリペ2世がまだ12才の時でしたえーん

 

カール5世は広大な領土の皇帝であるにもかかわらず、イザベラの死後、再婚しませんでした。

本来ならもっと嫡子をもうける必要がある立場だったのではないか、と思いますが。

イザベラを深く愛していたのでしょうね照れ

幾人かいる庶子たちはイザベラの亡くなった後にもうけた子なのかもしれないな~と思いました。

(調べていない・・ニヤリ

 

それにしても、ヨーロッパの歴史って、ホント結婚と出産による影響が大きいのですよね~びっくり

 

マクシミリアン1世の婚姻政策は、時代が過ぎて歴史として科学的にみても、奇跡としか言いようがない結果ですから。

当時は神様が最上だった時代だから、奇跡中の奇跡。

まさに”神の為せる御業“だっただろうな~口笛口笛


だって、誰か1人でも長生きして、誰か1人でも子を多く残したら、この結果にはならなかったかもしれないのですから。

(そうでしょ?違うかなキョロキョロ)


ポルトガル王マヌエル1世が夢みたみたいに、主導権を握るのはポルトガルだった可能性も、十分にあったのではないか、と思います。

(専門家の意見を聞いてみたいものだわニヤリ

 

以上。

もう長すぎるのでこのくらいにしますてへぺろ


重複説明が多く、相変わらずヘタな紹介で恐縮です。


お読みいただき、ありがとうございました。