1/17からパナソニック汐留ミュージアムで開催されている
パスキン展 -生誕130年 エコール・ド・パリの貴公子-」
の内覧会に先日行って来ました。

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パスキンと言えば、まず思い浮かぶのは、女性の肌の色使いですアップ乳白色の夢心地のような、ふわっとした感じのイメージ音譜そして、カンバスからは薄い光が発しているような印象ラブラブところで光といえば、パナソニックミュージアムでは、館内で美光色のLEDライトを使っているそうで、この展覧会にまさにピッタリだと思いました恋の矢
さて、今回の内覧会でも、ミュージアムの館長、広報の方に、パスキンの人となりについて色々とお話頂きました。
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作品解説というよりも、パスキンの人物像がくっきり浮かび上がって来るような、彼の全人生を振り返るようなお話だったので、時間が経つのも忘れてしまう程の面白さでした音譜音譜
まずは出身ですが、パスキンはブルガリアの裕福な商人の家に生まれたそうです。
ちなみに本名は、ジュリウス・モデカス・ピンカスだそうです。
彼は、ウィーンの初等教育を受けた後、父の仕事を継ごうとしたのですが、絵で生計を立てたいという思いや、女性との関わりが強い事から、あまりそのお仕事は続かなかったようです。
その後、娼館のおかみと深い仲になったりしつつも・・・
ウィーン→ミュンヘンで教育を受けながら、絵をたのしみながら学び、早々にその実力を発揮し、
アルベルト・ランゲンいう出版社の男性から才能を見出されたりしたそうです。
すぐさま、ジンプリティシムス(パウル・クレーも憧れていた当時の人気雑誌)と専属契約をし始めるなど、順調なスタートを切ったとのこと。
友人も多く女性にもモテていたそうですが、パスキンはどうしても絵画にのめり込みたいという思いが強く、パリに渡ったとのことでした。その頃、まだ若干二十歳のパスキン。

パリのアカデミーからは一線を引かれていた、エコール・ド・パリに所属していたパスキンでしたが、フジタとキスリングは、パスキンが最も仲良くした、エコール・ド・パリの仲間だそうです。
エコール・ド・パリの中でも絵の実力は高いパスキンでしたが、バレエ・リュス(前衛画家の作品を積極的に迎え入れた事で有名なバレエ団)の代表のディア・ギリアから、なぜか声が掛からなかったのは、不思議な感じがします。
また、強い影響を受けたマチスを助け、アカデミー・マチスの立ち上げにも深く関わったそうです。

彼の絵画への取組みは、真剣かつ、柔軟で、当時の流行りの手法は一通りは、試して、自分なりに消化をしていったそうで、彼の一生を通じた絵画は、時期とともに変遷していったのでした。
おおまかにまとめると、画風の流れとしては、フォービズム・ドイツ表現主義→キュービズム→プリミティブといったものになるそうですが、画風は彼が転地をするに伴って変化が見られました。
パスキンはパリと相思相愛だったのですが、第一次世界大戦の勃発により、後の妻のエルミーヌと共に渡米。

アメリカで伸び伸びと自分の絵画に没入出来た事は、パスキンにとって、後の財産になったそうです。 ただ、寒いのが苦手だったパスキンは、ニューヨークにとどまらず、ニューオリンズや南米に行ったりしていたとのこと。南米に渡航した後は、暖かみのある作品が生まれています。
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その後、パスキンは再びパリに戻ると画商との大口契約を得ています。
このように全てが順風満帆のように思われるパスキンですが、その一生は早く終わってしまいます。45歳で自殺による死を遂げたのです。
リュシーさんとの恋が実らなかったことや、アルコールに依存していまったこと、それらによる鬱が原因ではないかと言われています。
苦悩の種は恋だけではなく、大手の画商と契約をしたことで、自由を失ってしまったことが、自由人のパスキンにとって、最大のつらさとなってしまったこともあるそうです。

こちらが晩年の作品です。

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輪郭の線が震えるような感じなのは、パスキンの苦悩を表しているようです。
絵の客体と背景の不明瞭な感じこそ、パスキンビックリマークという気もしますけれど。。 もしこの展覧会をご覧戴く機会があれば、彼の人生の各時代の気分を思い浮かべながら、作品をご覧戴くと面白いかもしれません。

パスキン展
http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/15/150117/
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#パスキン展