誰かの言動に怒りが湧いたり、

比較して落ち込んだり、

つい口から出た言葉に嫌悪感をおぼえたり、

何もかもがうまくいかないと感じるようなことばかりで孤立したように感じたり、

誰かに理解してもらいたいと思ったり、

厄介者だと感じたり…。


目の前で起こる出来事や感情に反応して

上がったり下がったり、

疲れ果ててぐったりすることも、

わたしはたくさん経験してきました。


「投影」って言葉も知ってるけど、

だって子どもを殺されたんだから、

わたしたちはこんなに苦しいのに

どうしようもないんだと反発して。


まるで免罪符のように。


誰かのせいにして相手を傷つけている

自分の姿に気づいて落ち込んで、

それでも何をどうすればいいのか分からず

もがいたり。


いまも、時々ハマりそうになるけど、

その頃は常に、

自分の外側の現象を起点に考えていました。


誰かがこんな言葉を言ったから、

誰かがこんなことをしてるから、

誰かが配慮してくれないから、

誰かが…。


正義を盾にして、でもそのうち疲れ果てて、

感情を感じないように自分で自分を守っていることに気づきました。

分離の意識の結果、誰も幸せになってなくて。


相手に変わってほしいと思っている自分を

よく観察すると、

それは自分に対して言ってる言葉に思えてきて。


自分が何を大切にしたいと思っているのか、

自分が何を我慢しているのか、

自分が何にダメ出ししているのか、

自分が何をしてほしいのか、

自分がどう変わりたいのか…。


あぁ、結局のところ自分が起点だったんだなぁと

気づきました。


そして、

自分を甘やかすことと、

自分を慈しみ癒すことの違いにも気づきました。


表面的な傷の対処と深層部の傷の対処では
方法が違うように、
その時々の出来事に善処することと、
根本的に解決しようとすることは違うのだと。

お互いに、

相手を通して自分を見て、

相手を通して自分を知るための経験だったのだなぁと思えるようになってからは、

だんだんと、相手を変えようとしている自分に気づくことが増え、

自分を整えることに注力できるようになり。

だんだんと、

乱高下することも減ってきたように思います。


状況は変わらなくとも、

だんだんと、自分が貫きたいこと以外は

問題だと感じなくなってきているのだと思います。

まだまだ途上ですけれど、

そんな自分もOKだと感じます。


自分を許すということは、

経験から学ぶ力を養うこと。

自分の課題を明らかにして、

自分の本来持っている力を取り戻すこと

だと思えるようになってきました。


言葉は諸刃の剣。

傷つけることも、

勇気づけることもできる。


わたしたちを忍耐強く見守ってくださった方々のように、

言葉を大切にし、

自分の言葉に責任を持ちたいと、

気持ちを新たにした日でした。


暗くなってから帰宅すると、玄関先にヤモリが二匹。

しっかりと守ってくれてますね〜☺️