7/16 甲賀・湖南城巡り 続き

蒲生家関係の城の次はここも蒲生関係のお城です。

 

音羽城

滋賀県蒲生郡日野町音羽

応仁から文明年間に蒲生貞隆によって築かれたとされる。

大永2年(1522)蒲生貞隆の孫の蒲生秀紀と叔父の蒲生高郷が争った。六角家の援軍を得た高郷が秀紀の籠る音羽城を攻め翌大永3年秀紀を降伏させた。

その後蒲生高郷は中野城に居城を定め音羽城は廃城。

蒲生高郷の曾孫が蒲生氏郷になります。

城址公園な感じで整備されてました。

本丸跡

堀などが残っていますが東側の堀は当時の物ではなく「トロッコ道」として大きく深くされたそうです。

次はここをさらに南へ行くと「藤の寺 正法寺」がありその裏山の鎌掛城へ行きます。

鎌掛城

滋賀県蒲生郡日野町鎌掛

建武2年(1335)中野清信が築いたとされる。大永3年に降伏した蒲生秀紀が音羽城を退去ごここ鎌掛城に入る。ただその秀紀も大永5年(1525)毒殺されてしまいます。

その後は中野城主の蒲生賢秀が息子賦秀(後に氏郷)に家督を譲って鎌掛城麓に山屋敷を建てて移り住みます。

正法寺に付近の地図があり正法寺に車を停めて登ってすぐ左へ歩いていくと鎌掛のもう一つの名所「屏風岩」と「山屋敷」の案内の目印があります。

鎌掛の屏風岩

この上を更に登った所が鎌掛城のようです・・・。屏風岩も見て道を戻り山屋敷の方角へ歩くも途中の川があります。

この川の向こうが山屋敷と鎌掛城になって行きます。

浅瀬を渡って中へ入ると

削平地のような場所があり恐らくここが鎌掛山屋敷跡じゃないかと思います。

でここから鎌掛城までは尾根を直登・・・・えぇ・・・・(x_x;)

こんな場所をひたすら登っていっていきます。

案内がないので場所があってるか不安でしたが上へ行けば近づくだろうと思って登る。

30分以上は登ったでしょうか・・

三角点らしきものが見えてきた!頂上です、そしてここらへんが主郭部分か?

ここを更に進むと土塁と平地の削平地で曲輪跡だと思われる場所がありました。

石組の井戸があるはずですが疲労で探す気力が無かった・・・💦

後から考えたらもう少し時間をとって見て回りたかったが

ここで予想以上の時間と体力を使ってしまい・・・休憩後下山。

ですが標識が無いので降りる際の目印がなく途中でちょっと降りる方向がズレてると思い修正して降りていくと元来た場所と全然違う場所に降りてしまった・・・道らしき道もなくこりゃやばいかもと思うもスマホのマップで位置がわかったので元来た方向へ歩いて行くと屏風岩への分岐点の道のもう一つの道へ出た(ため池に行く道で最初この道を来て登城するつもりが道が無くなったので引き返してたので道にでた時はホッとしました)ので無事戻る事ができました。ただこの迷走でだいぶ予想より時間が過ぎてしまいました・・・・。

大森陣屋

滋賀県東近江市大森町

明暦元年(1655)最上義智により築かれる。

元和8年(1622)最上騒動で改易になった父最上義俊が大森の地に1万石で再封され、義俊死後義智が家督を継ぐも幼少の為5千石に半減され交代与力の旗本なり明治まで続きます。

碑の向かいの玉緒小学校一帯が陣屋跡だったが今は遺構はなく碑があるのみのようです。

東北の雄の一つの最上家が関西で続いてるとは最上義光も思わんでしょうなぁ・・・

近くにる妙応寺が最上家の菩提寺ですが今回は時間が押してるんで泣く泣くスルー・・・。

大森城

滋賀県東近江市大森町(大森神社隣)

六角家家臣の布施氏の居城。布施氏は布施山城の本家筋の布施三河守家と大森城の布施淡路守家に分かれてます。観音寺騒動の後本家筋の三河守が浅井氏と組み反旗を翻しますが淡路守は六角家に従ってます。

六角家が没落した後は布施公保織田信長の馬廻りに取り立てられるものの本能寺の変で亡くなったとされます。

大森神社横の道をすすむと大森城の案内板が見えてきます。

土塁・堀・食い違い虎口など遺構も残ってますし登り土橋で主格まで登っていけます。

思ったより見る場所多くて良かったなぁ。

本丸跡

所々に木人形が案内役で立ってます(^^

 

ここらへんで暑さMAXでした💦💦

 

続く・・・