岩内一号墳 と 和歌山県御坊 (有間皇子の古墳)
日高川の清流が、印象的な紀州和歌山の町、御坊を訪ねました。

ここを、訪ねたかったのは 孝徳天皇(難波宮の天皇)の皇子(有間皇子)が眠るのでは
ないかと言われている、岩内古墳を訪れたかったからです。
時代の流れの中に、精神を病んでしまった悲劇の皇子と云われます。


有間皇子が何故、狂人と言われたのか、何故、狂人にならなければいけなかったのか?
有間皇子が生きた時代を、その精神を多くの方たちが想像されています。
難波宮に孝徳天皇が即位して、数年後、中大兄皇子は、母(後の斉明天皇)、天皇の妻、間人皇后を連れて
大和へ帰ってしまいました。翌年、孝徳天皇は難波の宮で一人亡くなります。その天皇が小足媛(おたらしひめ)
との間に残したのが、有間皇子でした。もともと、孝徳天皇は中大兄皇子が即位するまでの、繫ぎの天皇と
云われていました。だけど、人間権力を握れば、欲が出ます 密かに息子へ、皇位の継承を考えたりする事も
あったのかもしれません?しかし、絶対的な権力を握る、中大兄皇子は自身の地位を確実な物とする為、
少しでも、対抗する権力を握り潰そうとします。その犠牲者になったのが有間皇子です。


有間皇子は、自分が疑われないように、狂った振りをしていたのではと想像されます。
時折、見せる才能の片鱗は素晴らしく!残したと云われる歌は、多くを考えさせます。
狂人となった、皇子が、病気療養の為、和歌山の白浜の地(牟婁)で過ごしたそうです。
毎日、綺麗な海と山に囲まれた場所で過ごした皇子は、少しづつ正気を取り戻しました。
何事も無く、美しい自然を眺めながら、歌を詠いながら、時を過ごしたかっただけなのかも知れません。


しかし、その時間を中大兄皇子、蘇我赤兄は許しませんでした。謀反の疑いをかけられ 牟婁の海へ
連行される途中、殺されました。彼が、和歌山の岩代を通りすぎるときに、残した歌です。


「磐白の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む」
訳=岩代の浜に生えている松の枝を結んで行くが、身の潔白が証明され、再び還って来る日があったら、
この地を過ぎる時自分は自分が結んだ松の枝を見ることであろう。
そのような日は果たして来るであろうか、来ないであろうか」
「家にあれば 筍に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
訳=家に居れば食器に盛って食べる飯であるが、こうして旅にある身は、今、椎の葉に盛って食べている。


井上靖さんの本で、この歌に出会ってから、有間皇子が眠る、岩代を訪れて見たくなりました。
この、場所に来て墳丘の前で、持つ時間 思い返す二つの歌は、人の世の無常を感じさせます。
若干18-19年の人生ですが、男としてそこへ生まれ、何も対抗する力も無く運命に逆らうには
自身を狂わせる事しか無かったのか?この皇子が成長して、作る作品をもうすこし聞いてみたかったです。

和歌山の御坊の地ですが、海と山と川に、囲まれた田舎の地だと思っていましたが、古来2-3世紀からの
史跡や6-7世紀に色んな事が中央(大和政権)との間にありました。
その伝えられる、物語を次の投稿で書きたいと思います。
最後まで、読んでいただきありがとうございました。