大晦日だけど、また少し前の話。
何もないXmasの日曜日、奥様は暮れのお買い物にコストコに実家のメンバーでお出かけ。
僕は掃除を仰せつかったけど、イベントその他で忙しくしてたから、何もする気にもならず、映画館に逃げ出しました。
映画鑑賞の間は機内モードで誰にも邪魔されない。
さて何を見ようかと映画館のラインナップを眺めたけど、僕の通うシネマフレックスはショップングモール内にあり、冬休みはガキ向けのアニメ等々ばかり並んでる。
そんな中、時間を眺めたら、ゴジラ-1.0を見た後ならば、「ナポレオン」のスタートにちょうど良い。
というわけで2度目のゴジラ鑑賞の後リドリー・スコットの描く「ナポレオン」に臨みました。
リドリー・スコット監督には、二つの顔があり、一つは、自ら創造したエイリアンに代表されるSF映画作家としての顔。
そしてもう一つがグラディエイターやエクソダスのやうな歴史映画。
これ、かなり本格的で重厚な作り方をするから、鑑賞する側とすれば、心して正座で臨むくらいの覚悟が必要。
そして正しくそんな映画でした。
ただ、この映画を見た時に感じた違和感。
これが最後まで引っ掛かった。
それを最初に述べよう。
この映画はナポレオンなのだから、当然舞台はフランスであります。
でも制作がリドリー・スコットなのだから当然映画は英語で語られるし英語圏のアクターが演じる。
これはミュージカル「レ・ミゼラブル」でも感じた違和感。
どうせ僕らは字幕で映画を追うのだから、これはフランス語のアフレコにでもしてくれたら、もっとリアリティがあるのに。
同じ事は「キングダム」についても言える。
古代中国を舞台にしながら、俳優は日本人で日本語で語られる映画というのは、違和感がある。
映画のリアリティというのは、そこまで追求してほしい。
映画そのものについては、フランスの英雄ナポレオンが、いかに戦争上手で戦争を通じて政治の世界で独裁化し皇帝となるかを描いてます。
冒頭マリー・アントワネットのギロチンから始まり、王政を排除し共和制を取りながらも、やがてはナポレオンをして専制国家となるというのはある意味歴史の皮肉。
昔大学時代に専攻した世界史を思い出しながら観ました。
ナポレオン・パナパルトはコルシカ生まれの士官として、革命後の列強の干渉下で存在感を示して行きます。
革命政府に異を唱える群衆に有無を言わせず大砲をぶっ放す暴君ぶりは、オデッサでの暴発を容認したニコライに通じるところがあるように思えた。
映画のクライマックスは、ロシア・オーストリア連合軍との戦いを描いたアウステルリッツの戦い。
ナポレオンの全盛期であり、巧みな戦術もありフランスの大勝となりました。
敵の大群を正面に引き付けて側面から氷上への砲撃は迫力満点。
ゴジラ-1.0が思いだした。
この映画の前に見たからね。
リドリー・スコットの描く人間ナポレオンは、ホアキン・フェニックスが演じるけど、そこに特に感慨はない。
ぼくもの持つナポレオン・ポナバルトはもっと小男のイメージだったけど、ホアキンは恰幅良く強そうだ。
だからなのか、ナポレオンの人間的弱さや愛妻ジョセフィーヌに寄せる溺愛ぶりが描き切れてないように思えます。
それにジョセフィーヌがそこまで魅力的な女優には見えなんだ。
その点が残念。
ナポレオンの生涯は戦争に明け暮れ、モスクワ侵攻の折には、ロシアの冬将軍によって兵の多くを失うという失敗を犯します。
このへんは、トルストイの「戦争と平和」がロシア側から描かれたのを、これも懐かしく思い出しました。
あれはやたら長い小説でした。
映画「戦争と平和」でのOヘップバーン演じるナターシャは可憐だった。
時代が違うとはいえ、バネッサ・カービー演じるジョセフィーヌとの差を感じてしまう。
「ジョセフィーヌイスを待て!」
これは椅子のほーとくのCMだった。
最後に雑談。
ナポレオンが2度目の失脚となったワーテルローの戦い。
これ英語
読みだとwaterloo、ウォータールーと読むのね。
ABBAの「ウォータールー」はワーテルローの事だったというのを最近知りました。
曲の中 is always repeating way と歌っていのは洋の東西を問わず、歴史は繰り返すという事ですね。
戦争は勝てば勝つほど戦争の連鎖を生み出す。
しかしやがてそれは破綻する。
ナポレオンしかり、旧日本軍しかり、歴史は繰り返す。