今年2月に行った高知遠征、土佐旅情番外編になります。
何を今様なんだけど、時々小出しに出して行きます。
もう晩秋だけど。
 
さて、こうやって高知に来るようになって何年になるだろう?
かれこれ10年にもなるのかな?
これは石垣島に続いての僕の年間スケジュールのルーティン。
身体丈夫なうちは続けて行きたいと思ってます。

 

この中で、まだまだ行っちょらん地が沢山あるがよ。

 

 

今回、空港から桂浜の龍馬記念館へ3度目の来訪。

いや、4度目かな?


途中飛び立つ飛行機見えちょった。

 

桂浜へ。

今回海岸には行かず、龍馬記念館のみの来訪。

 

龍馬記念館到着。

 

ちょうど、勝海舟生誕200年展をしてました。

良いタイミングぜよ。

 

今回、山内容堂の本を読んだから、今一度龍馬記念館を訪ねたいと思いました。

3度目やね。

愚妻からは、「またいくの?」なんて呆れられたし、A氏やヤ◯ダは、かね春の鰻重の順番待ちに行きよったけどね。

 

さて、幕末の歴史を動かしたのは藩の力であります。

このことを山内容堂の本を読んだ時、強く思いました。

坂本龍馬を始め西郷隆盛や桂小五郎といった魅力的な個の存在はあるものの、その藩を動かした者が維新を成し遂げたのだと思います。

しかし、そんな維新史の中で、幕臣でありながら、個の力として幕末の歴史に燦然と存在感を魅せたのが勝海舟であったと思うのです。

 

勝海舟は西郷隆盛が幕臣の中で唯一と言って良い敬意を払った人物であると思います。

それは西郷が生涯の主君と仰いだ島津斉彬から勝海舟を紹介されたからであると思うのです。

 

そんな資料は見た事ないけど、勝海舟が長崎操練所で航海の傍ら薩摩に行き島津斉彬と時勢を語り合い、この聡明なる2人はお互いを認め合い意気投合しました。

その席で、斉彬が西郷に「こんお方はひとかどの人物じゃっどん」と紹介したのではないか?

ボクはそう思ってます。

 

だから、後に神戸で海軍操練所が閉鎖された時、勝海舟が坂本龍馬ら脱藩浪士を西郷隆盛に預けたのだし、西郷隆盛という人物は義に厚い人物であるが故、龍馬らを迎い入れたのだと思います。

後に龍馬が新撰組に襲われた時西郷が薩摩藩邸に匿ったのも、それ故にであったことでしょう。

 

龍馬記念館では、その時のことを姉宛の手紙で「籠で薩摩藩に向かい、その様子を目明かしが地団駄踏んで眺めていたのが痛快だ」と書いてます。

また自分宛の手紙は薩摩藩西郷吉之助付け才谷梅太郎まで送って欲しい、と半ば自慢げにかいてあるのが微笑ましいと思います。

龍馬にすれば、脱藩浪士の自分が薩摩藩で重要な人物だとされている事を自慢したかったのでしょう。

それくらい、潘と個の力の差があったという事です。


そしてそれがのちに、薩長連合への繋がったのですね。

薩長連合は、蛤御門の変で京を追われ長州に帯同した中岡慎太郎のアイデアであり、坂本龍馬が薩摩藩とのパイプ役を担ったものでした。

 

今回、勝海舟の展示物の中で面白いと思ったのは、海臨丸太平洋横断を成し遂げた時、同乗したアメリカ人船員オルコットに何かと世話になったお礼の手紙が展示してありました。

勝海舟がどの程度英語に堪能であったのかは知りませんが、実際にはそれを英訳したのがジョン万次郎であったというのが新鮮でした。

土佐清水のジョン万次郎記念館を訪ねた時を思い出したからね。

ジョン万次郎と勝海舟、あるいは同じく同乗した福沢諭吉の接点は、どうだったのだろう?

 

勝海舟の多くの逸話は、氏自ら語り、それをまとめた「氷川清話」によります。

勝海舟自らが話した内容なのだから事実だろう、と考えると、結構そこに落とし穴があったりもする、僕はそう思ってます。

 

昔話を記者にする時には、つい話が大きくなったりということもあるでしょう。

ただでさえ、勝海舟という人物は話し上手のべらんめえの噺家でもありましたしね。

 

1番有名な逸話は坂本龍馬との出会い。

これを「自分を斬りに来た」とする話であったとするのが、氷川清話からとった有名な話。

これが事実として一人歩きさせたのが司馬遼太郎「竜馬がゆく」。

以来、ドラマや映画で2人の出会いとして使われるようになります。

しかしその逸話に疑問があり、龍馬記念館にはその説はありません。

 

その龍馬から岡田以蔵を用心棒として紹介され、暴漢に襲われ、以蔵が暴漢を斬った時「そんな人殺しをしていてはいけないよ」と諭すも、以蔵が「でも、わしが斬らんかったら、先生が斬られましたきに」と言われ「オレもそれには一言も無かったよ」と言った話。

 

これもドラマ等でよく使われるシーン。

果たして、これはどうなのか?

これは明治になり、幕末の人斬り以蔵や人斬り半次郎らが語られるようになった時、勝海舟の盛った話ではないか。

 

あるいはアメリカから帰った勝海舟が幕府のお偉いさんに呼ばれ「お主は慧眼であるから、アメリカでさぞ色々珍しいものを見たであろう」

と振られ「いやあ、人間のやることは古今東西、そんな変わりありませんよ」と答えるも、あまりしつこく聞かれるから、「アメリカでは偉い人は賢く、その点では我が国とは逆だと感じました」と答えたら「黙れ!」と怒られた、と有ります。

これなんかも面白い話ではあるけど、実際余程気心知れた上司でも、こんな話は出来ないだろうと思います。

 

その勝海舟が品川で西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城が実現したのは歴史です。

そのため、明治になってから、勝海舟は旧幕臣の恨みを多く買ったとあります。

しかし、朝敵とされた徳川慶喜が明治になり許され爵位が与えられ、明治天皇に拝謁されるよう動いたのは勝海舟でありました。

そんな勝家に慶喜は自身の7男を養子として迎えたのでした。

勝海舟は最後まで旗本としての幕臣であったです。

 

そういえば、ラジオで小耳に挟んだ「竜馬がゆく」の逸話を最後に記します。

 

司馬遼太郎がサンケイ新聞で「竜馬がゆく」の連載をスタートする時、新聞社内では、「坂本龍馬って誰?」とか「そんな地味な小説で良いのか?」という意見が多数を占めたと、当時の担当が語ったとサンケイ新聞にありました。

歴史において生き残った者には栄華の記録は後に作られますが、志半ばに倒れた志士は歴史に埋もれます。

 

それを掘り起こすのが小説家であるのですが、時としてその小説が有名になり過ぎると、小説で描かれた人物が、より以上の偉人として祭り上げられる。

 

ある意味坂本龍馬は、そうであるのではないか、思うのです。

 

今回、龍馬記念館で勝海舟展をやっていたのを見て、そんな感想を思ったりもしました。


歴史と人とは深い交わりの中で、たくさんの想像を掻き立ててくれます。


龍馬記念館から桂浜を経由して春野に向かいます。

途中の海岸線が美しい。

 

 

かね春のウナギ

 

 

 野球を見た後、高知市内に戻り、車中から播磨屋橋を眺める。




 

 こちらは、ひろめ市場に向かう途中のアーケード街で見つけた吉田東洋殉難の地と武市瑞山殉節の地を告げています。

殉難と殉節の違いは、暗殺と切腹の違いなのかどうか?

吉田東洋暗殺の仕掛人は武市半平太であり、東洋暗殺を最後まで許さなかった山内容堂が武市瑞山を切腹に追い込みました。

 

 土佐はひろめ市場で一献ぜよ

 

 かつお塩叩き

 

 

 



翌日曜日は朝市でお買い物。


ランチはおうどん







今回の旅は2泊3日だったので、日曜の夜は嫁と2人で居酒屋でしっぽり。




かくて高知の旅は終焉。