NHKの大河ドラマは、毎回録画して見てます。

ボクの唯一の地上波鑑賞ドラマだけど、楽しみに見てるというよりは歴史が好きだから惰性で見てるという言い方の方が正しい。


今年の大河ドラマは徳川家康の生涯を描いた「どうする家康」。

主演の松本潤氏のスマートさは徳川家康らしく無いが、ドラマとはこういったものでしょう。

朝ドラは健気な女子であり、大河は母性愛くすぐる男子というのが定番だしね。

そういやぁ平沢大河もそんなイメージ。

なんの脈略もないけど。


その「どうする家康」ですが、全体的な出来で言えば、相当に酷いという感想。

特に家康の正妻である筑山殿の描き方。

所詮ドラマはドラマでありフィクションなのはやむおえないとは思うけど、あれは酷い。


家康は今川家での人質時代、今川家ゆかりの妻を娶りました。

しかし桶狭間で今川義元が討ち取られると、家康は独立し今川と縁を切り信長と結びます。


そのへん、今川家から嫁いだ嫁としては面白く無い。

故に、両者は別居生活となり、家康は浜松、嫁である筑山殿と嫡男信康は岡崎城で暮らすことになります。


そして筑山殿は武田と内通。

それを信康の嫁が父である信長に報告し、家康は自身の妻と嫡男を殺さなければならなかった。


これが定説であり、最も真実に近いものと考えられます。


しかしドラマでの筑山殿は有村架純という人気女優。

彼女をどう悪女として描くのかと思ったら、なんと武田と手を結び戦の無い世を作るための密談をしていたというもの。

これはもうフィクションを通り過ぎファンタジーと呼ぶべき。

はちゃめちゃな脚本が持ち味の三谷幸喜でも、ここまでは書かなかったろう。

因みに前作「鎌倉殿の十三人」は、過去の永井路子「草燃ゆる」をなぞってはいたけど(やはり三谷幸喜はパロディ作家だと認識)、概ね史実には忠実ではありました。


この辺でドラマとしては破綻したと思う。


さて、ドラマはで関ヶ原の戦いを描きました。

ドラマもオーラスを迎えてのクライマックスという事ですね。


そこでというわけでも無いけど、今年関ヶ原に行った、その旅の顛末を小出しにして行こうと思います。


3月の三連休、ナゴヤドームのオープン戦を見に行くついでに、プチ旅行をしました。


3月19日、早朝に千葉を出立、名古屋まで新幹線で楽チン。


名古屋からレンタカーで関ヶ原に向かいました。


高速道で約1時間、岐阜にある関ヶ原古戦場記念館に来ました。

完全に僕の趣味。

嫁と次男が付き合ってくれた、というパーティ。


やたら立派な公共事業。


徳川家康の「三葉葵」と石田三成「大一大万大吉」の旗印があります。


三葉葵は徳川家の家紋です。

水戸黄門で角さんが「この紋所が目に入らぬか!」というのが三つ葉葵の印籠で、三葉葵の紋所を使うことの出来たのは徳川家だけ、という事。


一方の石田三成の「大一大万大吉」は、「1人は万民のために 万民は一人のために さすれば天下は大吉」という意味なんだそうです。

誠実さを感じたりもしますね。

アレクサンドル・デュマの「三銃士」の「one for all, allfor one」の精神に通じるところであります。


余談だけど故水島新司氏の野球漫画「一球さん」に登場する三球士が一休さんと出会いそれぞれが決闘を申し込む、なんていう出会いは、デュマの三銃士そのものでした。

こういうところに水島新司のセンスを感じます。

あるいは、同じ野球漫画でも「ルーキーズ」では、安仁屋が帽子のツバに「one for olll」と書いて川藤にallと直された、なんてシーンもありました。




館内撮影禁止なので画像はありませんが、大迫力の動画で関ヶ原の合戦の様子をスクリーンに映し出されました。

映画館のVFXのようにイスが振動し風が顔を吹きかけます。

僕は映画館で慣れてるけど、嫁さんはびっくりしたようでした。

でもなかなかに楽しい。

アトラクションだと思えば良い。

これからの展示施設は、このくらい必要かもね。


関ヶ原の合戦の模様は、ほぼ司馬遼太郎の「関ヶ原」に倣って描かれていたように思います。


上杉景勝討伐に向かった徳川家康軍の隙を突き、石田三成が挙兵。

小山から家康は東海道から、秀忠は中山道から岐阜を目指します。

かくて、東軍西軍が激突したのが関ヶ原であり、天下分け目の合戦となりました。



正面に見える山が桃配山で家康の本陣。

右に松尾山の小早川秀秋の陣。

左側から石田三成・宇喜多秀家という西軍の主力。

関ヶ原の盆地が主戦場となりました。



原田眞人監督「関ヶ原」や昔のTBSドラマ「関ヶ原」は司馬遼太郎原作に忠実に描き切る事で、さもそれが真実であるかのやうに誤解する場合が多い。

当然の事ながら、歴史は勝者が作り出すもので、敗者の真実は葬り去られる。

それを埋めてドラマとするのが小説家でありドラマの脚本家である。


だから司馬史観で描かれた小山評定にしても、最近の研究では無かったとする説もある。


ともあれ、関ヶ原は天下割れ目の合戦ではあるけど、内実は豊臣家の権力争いという内紛でもありました。

だから、豊臣恩顧の大名同士が東西に分かれて戦った訳で、しかし結果としては徳川家康をして天下人に押し上げた決戦でもあった訳です。



関ヶ原を後にして、西上。

琵琶湖を目指します。


途中、何やら美味そうな老舗の「ちゃんぽん亭」発見。

ラーメン大好きな僕と息子の意見にて、こちらでランチ。


創業昭和38年という近江ちゃんぽんを頂きました。


誤解を恐れずに言うと、実は美味いチャンポン食ったことない。

これは長崎でも思ったけど。

多分僕が舌バカなんだと思うけど、リンガーハットのチャンポンの方が美味くね?


腹を満たし、次に向かったのは、国宝彦根城。国宝天守5城に数えられます。

その他の犬山城・松本城・姫路城・松江城は行ったことあるから、これで5城制覇。


堀を渡ってお城へと向かいます。



趣のある坂を登っていきます。


大きな鷹かな?


天守閣が見えて来ました。


段々階段や坂が苦手になってきました。

でも頑張る。

足腰鍛えねば!



早咲きの桃の花が咲いてました。



天守到着!

生憎ちょうど雨が降って来て何とか天守に入り雨を免れました。


天守閣から琵琶湖を眺めます。


彦根城は、徳川四天王の一人井伊直政を祖とします。

徳川家が天川取った後、西への備えとして井伊直政を彼の地に据えました。

大河ドラマでは板垣李光人が演じました。

ちょっと前の「女城主直虎」では菅野将暉が演じてましたから、井伊直政というのは、よほど美男子のイメージがあるのかな?


実際は井伊の赤鬼と呼ばれ、武田の旧家臣を多く召し抱え、徳川家の先鋒として関ヶ原の戦いでも活躍し、猛将として井伊の赤備えと恐れられたとの事です。


であるから、もし徳川家に事有れば、先鋒として敵に当たるという意味合いもあり、西への備えとしました。

幕末安政の大獄を引き起こし、桜田門外ノ変で暗殺された井伊直弼は、井伊家の末裔に当たります。

余談だけど、その幕末において薩長が鳥羽・伏見の戦いで勝利を収め、江戸を目指して進軍を開始した時、井伊彦根藩は、徳川家寄りに立つ事はせず、官軍側に付きました。

井伊彦根藩は徳川家に見切りをつけたのです。

徳川家康が草葉の陰で嘆いたかどうかは知らない。


でもね、ある意味だから彦根城は無傷のまま今にその姿を残しているとも言えるのです。


因みに嫁はひこにゃんが居ない、とこちらを残念がってました。


彦根城を後にして、琵琶湖の湖水沿いに、次に向かったのは安土。

言わずと知れた織田信長の魔王の城であります。

残念ながら、安土城は本能寺の変の後、愚息織田信雄によって焼かれ現存は残されてはおりません。

城址跡に向かうのも一興ではありますが、ここは安土駅にある安土城郭資料館を訪ねます。







安土城は、織田信長の権威の象徴であると同時に、魔王の城と呼ぶに相応しい。

圧倒的な六重構造のこの城に信長は君臨し、人々は安土城と信長を神と崇めるべく参拝する。

これが信長が目指した天下統一であり、自らが神とのるべく象徴としては安土城であったとボクは思います。


信長の目指したもの。

それは自らが神となる事。

本能寺で倒れる事が無かったなら、信長は天皇すら廃していたかもしれない。


歴史上、天皇を越えようとした支配者に、平清盛と足利義満がいたと思います。

しかし平家は源氏に滅ぼされ、足利義満はその権威の絶頂時に突然病死します(かなりの確率で毒殺されたと考えられる)。

同様に織田信長も天下布武に跡一息ところで本能寺に倒れるのです。


これは、一種の天皇教を守ろうとする日本独自の自助作用が働くのかも知れない。



城跡資料館には、安土城の復元模型があります。

それが故に、ボクはこちへ足を運びました。


こんな形の天守閣はどこにもありせん。


その内部構造は、3階までの吹き抜けが圧倒的な存在感であった事でしょう。

まさにこの独特な城そのものが魔王の城であると思うのです。









信長論を語ると長くなるので、今回はこの辺で。


最後にひとつだけ。

作家の井沢元彦氏は「逆説の日本史」の中で、日本人が宗教に無頓着となったのは信長のおかげだとしました。

これは名言であると思います。


信長は中世における武装集団である宗教団体を徹底的に弾圧しました。

16世紀の世界は宗教色の強い時代でした。

ヨーロッパでは政治にカトリックが関与し魔女裁判が平然と行われました。

日本でも比叡山はじめ多くの寺院は武装し、本願寺の門徒は石山を要塞化しました。

これに対し、政治に宗教色を持ち込むことを良しとしない信長は徹底的に彼らを叩き沈めました。

故に、日本ではルターの宗教革命の100年前、既に

政治から宗教を取り除いたのです。

その結果が現代まで日本人の無宗教に繋がったのだ、と氏は語ります。


ちょうど今、イスラエルのガザ地区への侵攻が取り沙汰されています。

この戦闘の根本的要因は、イスラム社会がイスラエルの存在を容認しないところから発生しています。

イスラム社会では、政治も社会もイスラム教の法典が優先します。

それが良いか悪いかということでなく、彼らには信長が居なかったから宗教革命は行われなかった。

そんなことを思ったりもしました。


この旅行記は、引き続きびわこへと向かいます。