頼りになるのはまず自分
【初めに。】
・昨日の地震に於きまして、皆様のご無事を心より願っております。
《自然災害と私》
・私は小学五年の時に、阪神・淡路大震災を、毎朝観ていたニュース番組(民放)で事態を知り、なんか大変な事が起きた、と思いながら学校に行きました。
その日は1日、特別授業みたいな感じになったのを覚えています。避難訓練、ディスカッション、当時テレビがあったので※もちろん、授業で使う時だけですが。
担任の先生が給食の時に、お昼のニュースを流して、よく見ておきなさい。というような事を言って
みんなが割と画面越しながらも壮絶な現場を観ていた気がします。
子どもながらに、【怖い】もあるけれども、
正直な話、当時イジメにあっていたし、家庭内不和だった私は
心の奥底では、………『そうか……』という意識も少なからずあった。と思います。
私にとって、最初の大規模災害を、画面越しに目の当たりにした日でした。
当然、両親などもあーだこーだといい、
過剰な防災意識をなんども口にし始めた気がします。
次は2004年に起きた、新潟県中越地震です。
当事者(被災者)で、19歳。
精神科を1年前に退院し、社会復帰、初めての職場に勤め始めて、半年より少し前の出来事でした。
職場は老朽化していた建物でしたが、半壊にも確か該当しないけれど、物はとにかく散乱して、戸も少し歪んでしまったようでした。しばらく使用禁止の日々が続き、地震発生直後、私は仕事とは別の、地域のクラブ活動の終わりの時でした。子どもたちの帰宅を見送り、コーチ陣で喫茶店で振り返りをした時です。
喫茶店なので、当然割れ物があります。
当時は車の免許を取得していないので、その時はコーチに自宅まで車で送っていただいたのをよく覚えています。この時は6時近い、夕方から夜に入る時間帯で、しかも秋。
この時の私は、精神科に通院しており、服薬もしていました。外来受診ではなかったと思います。
余震も続き、1日目は野外で確か父の車でしばらく過ごし、家族で最寄りの避難所で1晩泊まりました。
出身保育園でもあり、精神科入院前に実習していた場所に、なんならトラウマ。このような形でお世話になることになるとは。。。
家族も嫌、避難所も嫌。そんな中、ただただ私は何をしていたっけ。。。
とにかく避難所である保育園で寝る場所の確保とかご飯の確保とか
なんかとにかく必死。後はひたすら、1年前にお世話になった人たちには特に会いたくない。
切実で必死で、怯えて、兎にも角にも、精神疾患の1番の原因である家族と、この事態を過ごさなければならない事の苦痛と、それでも心の奥底にある、身内と一緒、全員一応無事であるという、ごく僅かな安堵感。やはり、幼少期にほぼ母子家庭のような家庭であり、父からのDVに耐えた母の存在は、周囲には嫌いと言っていても、大黒柱のような存在だな、と今思えば有ったな。と思います。
携帯電話だけとにかくキツく握りしめていた気がします。
翌日以降。
ライフラインも家の中が復旧するまでは町内の人たちが助け合い、屋外野宿だったり車中泊だったり。
秋の日の夜に近所の人が起こしてくれた火の暖かさ。
薬屋さんとパン屋さんの、カイロと食料の提供。
交替制で火番、監視、情報伝達してくれた
町内の青年会のお兄さん、お父さん。
私も含め、余震の合間を縫って、
片付けたり、使えそうなものを持ち出したり。
私は職場のみなさんの安否確認。
地域の活動も2つくらいしていたので、
そちらのうち1つの、安否確認と情報提供を任され奔走します。
そのうちの1つもまた、指定避難所であり、
住民が避難所として活用していたため、
講習会をしていた私たちはいろんな対応をしました。
1ヶ月か2ヶ月くらい経ったころ、講習会は再開することが出来たような記憶があります。
この当時は、ガラケー時代ではありましたが、
SNSはあまり無く
講習会は手話。ろう者から日本手話(ろうの世界の言語)
を学ぶこと。やりとりはメールがメイン。FAXは、停電で使えない。もちろん、ラジオも意味が無い。
私はこの時から
《非常時》への対応を、当時の職種や、関わった世界の人たちから叱咤激励を受け、たくさん気づき、学び、
私に出来ることを精一杯していました。
もはや
うつ病である事など頭になかった。
当時はまだ、自己認識で、自分は一般とは少し違うのはわかっていたけど、自閉症の【スペクトラム】という認識はほぼ皆無だった時代だったように思います。そもそも、【自閉症】という言葉はありましたが、【スペクトラム】という言葉は皆無に等しい認知度です。
彼らが今後、こういう事態になった時に
他者と関わるには、どのように彼らの特性や彼らの周囲を伝えたらいいのか。
また
彼らが自ら、自分に出来る事は何か。を考えるようになりました。
そしてそれは、同時に自分自身にも言える事でした。
自分に必要なモノ。
それは
お金や処方薬だけでは、無い。
心。今在る現場をまずは見渡して
何があって何がないのか。
何が必要で、何が不足して困っているのか。
代用品になるのはあるか。
自分が助けを求めるには、どのような方法がいいのか。
自分に問いかけて、自分に、あるいは他者に気づかせて貰うこと。
これは私の中では
大切に思うことのうちの、1つです。
余震に気をつけながらも日々を過ごしていった記録は
また次回の記事に記しておこうと思います。
最後に、私が行った事をいくつか記録しておきます。
・職場の保護者及び子どもたちの安否確認。
・地域活動の日本手話講習会に参加していた人達の安否確認と情報提供。
・近所の小さい子ども(主に保育園児)の遊び相手。
折り紙やスケッチブックなど。あやとりもしたかな。お手玉もあった。色鉛筆でたくさん描いた。
ごっこ遊びもした。
結局、こういうアナログな事が
子どもや大人、そして自分の笑顔を作った。
夜は星空が
いつもは綺麗!って嬉しくなるのに
皮肉なくらい満点の星空で
それでもやっぱり、
美しかった。
わたしの町内の人たちって
やっぱり愛のある人がたくさん居た地域なんだなって思った事や
私が学生時代志して決めた道で勤務している人たちは
避難所になると、こういう事もするのだ、と。
普段激務の中働いている人たちはたくさんいますが、
あの時から、【保育士】という職種の
【福祉】の面を痛いくらい見せられた時間でした。
当時の全ての皆様、ほんとにほんとにありがとう。
ひとときの、心休まる時間を、どうか
見つけてみてください。
IOLA