79年前の1945年6月18日
ひめゆり学徒隊解散命令
数日後100名あまりの尊い命が失われました・合掌🙏
当時に状況もわからず、学徒動員を批判するのは良くないと思いますので、本日はその当時を振り返ってみようかと思います。
01.沖縄戦とひめゆり学徒隊
太平洋戦争末期の1945年3月から3か月余り、日米両軍は沖縄で住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げました。
米軍は、圧倒的な物量で攻撃しました。
日本軍は、沖縄を本土防衛の防波堤と位置づけ、米軍の本土上陸を1日でも遅らせるために、壕に潜んで長期戦にもちこむ持久作戦をとりました。この作戦が沖縄戦を長引かせ、日米の戦死者は20万人以上にのぼりました。
那覇市安里にあった「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からも、生徒・教師240名が看護要員として動員され、そのうち136名が死亡しました。
2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後、彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。
02.男女学徒隊の戦場動員
沖縄戦では、県内にあった21の全ての中等学校・師範学校から生徒が戦場に動員されました。女子は主に看護活動、男子は砲爆撃の中、部隊の物資運びや伝令(命令の伝達)、橋の補修、電話線の修復などを行いました。
米軍戦車への自爆攻撃を命じられた生徒もいました。
生徒の戦場動員は、軍の要請によって、軍と県との話し合いで決まり、学校が従いました。
女子生徒の戦場動員に法的な根拠はなく、男子生徒の戦場動員に必要な法的手続きはとられませんでした。
学徒隊の生徒、兵として入隊した生徒、自宅近くの部隊に動員された生徒、家族と避難中に命を落とした生徒もいます。
あわせて約2000人以上の生徒が沖縄戦で亡くなりました。
03.南風原の沖縄陸軍病院
1945年3月23日夜、ひめゆりの生徒は南風原にある沖縄陸軍病院に向かいました。
そこは兵隊のための病院で、40近い壕が掘られ、粗末な二段ベッドが並んでいる中、排泄の片付け、食事の世話、包帯交換の手伝いなど、看護婦と休む暇もなく一緒に患者の世話を行いました。
特に、飯上げや水くみ、死体埋葬は、壕の外に出て行く命がけの仕事でした。
動員された生徒は222名、教師は18名にのぼります。
04.過酷な勤務
患者の食事は、おにぎり一個が朝夕2回。
徐々に小さくなってピンポン玉程で1日1個。
生徒の食事も同じでした。
米軍との戦闘が激しくなると、重傷の患者でいっぱいになり、生徒が横になる場所はなく、壁にもたれて仮眠を取りましたが、すぐに患者に呼ばれて起こされました。
患者は、「水をくれ」「おしっこがしたい」「痛い、痛い、何とかしてくれ」と呼び続けていました。
食べ物も飲み水も少ないせいか、生徒たちには生理も排便もほとんどなくなり、汚れた衣服で頭にはシラミがわきました。
青白くやせ細っていき、高熱におそわれ倒れる者も出てきました。
05.南部への撤退
5月22日、米軍が迫り日本軍は南部への撤退を決定し、25日沖縄陸軍病院にも撤退命令が出され、南部の豪と急ぎました。
そこは医療器具や薬品、負傷兵を収容する場所もなく、病院はその機能を失います。
6月中旬には、米軍が南部へと迫り、陸軍病院の壕も次々と攻撃されていきました。
06.解散命令と死の彷徨
6月18日夜、陸軍病院では学徒隊に「解散命令」が言いわたされました。
壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められていきました。
砲弾の飛び交う中、傷ついた体をひきずって逃げる者、負傷した学友を助けて歩いていく者、重傷で動けずその場に倒れる者、砲弾に吹き飛ばされる者、ガス弾 (黄リン弾)攻撃を受ける者、手榴弾を爆発させる者、海岸で大波にのまれる者など、行き場を失い、父母を呼びながら死んでいく生徒が続出しました。
生徒の多くは、6月20日から28日の間に米軍に捕まり、各地の収容所に送られましたが、なかには日本の降伏も知らずに8月22日にまで壕に隠れていた生徒もいました。
07.ひめゆり学徒の動員・死亡状況
沖縄陸軍病院に動員された生徒・教師240人のうち136人が死亡しました。
死亡者の86%にあたる117人が6月18日の解散命令後に死亡、または行方不明になりました。
「解散命令」は、結果的に米軍の包囲網の中に生徒たちを放り出すことになり、その後の犠牲を飛躍的に増やしたのです。
沖縄陸軍病院に動員された人以外にも、91人の生徒と教師が沖縄戦で亡くなっています。
08.ひめゆり学徒隊の戦跡「伊原第三外科壕」
現在、ひめゆりの塔が建っているガマ(鍾乳洞)は、沖縄陸軍病院の第三外科が南部撤退後に入っていた壕で、「伊原第三外科壕」と呼ばれ、ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民などおよそ100名が隠れていました。
19日早朝、米軍の攻撃を受け、80名あまりが亡くなりました。
参照
ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館
振り返って
当時生徒たちは 、「絶対に捕虜になってはいけない」と考えていました。 またアメリカ兵に捕まったら女性はレイプされ無残な殺され方をされると、信じ込んでいました。
ひめゆり学徒隊に限らず
「逃げずに投降すれば死なずに済んだものを…」
「日本軍が洗脳したゆえ、助かる命も助からなかった…」
などの意見をよく見ます。
だが、そういう思考は
当時の戦争状態という事を全く考えていない
平和時の発想でしかありません。
実際にレイプや殺害はあっただろうし
捕虜になればどうなるか、肌で感じていたゆえ
投降しなかったのは、命と操を守る為の行動だったのであろうと推測されます。
安易に、当時の行動を批判するのは間違っているでしょう。