5歳の春頃、近所に住む友達と3人で、近くにある小さな山で遊ぶことになった。
崖道を歩いていると、不意に友達の1人から背中を”どんっ”と押された。
気がつくと、数メートルある崖道から落ちてしまっていて、右腕と右足が変な方向に曲がっていた。
友達2人は私をおいて何処かに走っていった。
突然、右腕と右足に激痛が走り、大声で泣き叫んだ。
その声を聞きつけた母が駆け寄り、そのまま救急車で病院へと運ばれた。
右足の痛みは忘れてしまったが、右腕の骨を繋ぎ合わせた時の痛みは覚えている。
右足と右腕の骨折。ギプスが取れるまで1ヶ月。
詳しくは聞かなかったが、友達2人はどうやら警察のお世話になったらしい。

その当時は保育園に通っていて、昼食の際のスプーンがお箸に変わる頃。
昼食の際には皆が得意気にお箸を使っていた。
それまでは全く意識をしていなかった女の子がいた。
のぞみちゃん。
私ものぞみちゃんも同じクラスの園児も、ほとんどの子がお箸を使えるようになっていた。
しかし利き腕である右手を骨折してギプスを巻いた私はお箸が使えなくなってしまっていた。
仕方がないので左手でスプーンを使ってご飯を食べていると、周りの友達からからかわれた。
そんな自分が恥ずかしく、泣きながらご飯を食べた。
すると、のぞみちゃんが私の隣に椅子を持ってきて座り、
「一緒に食べよう」
と言って、手にしていたお箸を置き、スプーンを掴んでひとくち食べた。
『のぞみちゃんってこんなに優しい子だったんだ』
のぞみちゃんと私は、クラスでふたりだけ、スプーンを使うようになった。
特に彼女のことを意識していなかったし、ましてや年齢が年齢なので恋心というものも抱いてなかったのだが、この事がきっかけになりのぞみちゃんとの距離が一気に縮まった。
車椅子で通園し、グランド遊びは出来ず。
仲良しの友達がいたと思うのだが、のぞみちゃんは私のギプスが取れるまでの1ヶ月間、朝からお迎えの時間まで一緒に遊んでくれた。

夏になり、プールの季節になる頃にはリハビリも終え、以前と同様に動けるようになった。
プールの時間にはみんながはしゃいで先生を困らせることもあった。
私も類にもれず、友達と一緒になって先生に水をかけたりして遊んでいた。
ふと気がついた。
のぞみちゃんがいない。
先生に尋ねると、のぞみちゃんはお部屋で遊んでる、とのことだった。
一緒にプールで遊べばいいのに、そう思ってのぞみちゃんを誘おうと部屋に入った。
のぞみちゃんは園長先生と画用紙にクレヨンでお絵かきをしていた。
「のぞみちゃん!一緒にプール行こう!」
誘ってみたが、
「ううん!私はいいから遊んでおいでよ!」
子供だったからなのか、私が馬鹿だったからなのか、
「わかった!」
そう言って私はプールに戻って遊んだ。

その日のお迎え時間の少し前、
「こっち来てー」
とのぞみちゃんから体育館に誘われた。
「なになに?」
「この跳び箱の中に一緒に入ろう」
そう言われて、のぞみちゃんとふたりで跳び箱の中に入った。
するとのぞみちゃんは着ていたTシャツを脱ぎはじめ、
「ここ見てー」
胸のあたりを指差した。
ほんの僅かな光の差し込む箱の中で、のぞみちゃんが指差す胸を見た。
そこには縦に大きな傷跡があった。
「どうしたのこれ?」
「わたしねー、心臓の病気なのー。まだちっさかった時に手術したんだって」
あ。そうか。それでなのか。
プールで遊ぶには着替えをしなければならない。
その時に他の友達に見られたくなかったし、激しい運動も出来なかったのか。
道理でみんなと追いかけっことかジャングルジムとかで遊んだりしなかったのか。
「痛い?」
私がきくと、
「これはもう痛くないんだけど、走ったりしたら駄目なんだって」
「そっかー・・・。じゃあ僕と遊ぶ時は痛くないことをして遊ぼうね」
「うん!」
すっとのぞみちゃんに抱き締められて、その後すぐに口唇にキスをされた。
まだ5歳だった私には、キスがどう言う意味なのか全く解らなかった。
それでも、これは秘密のことなんだ、と何となく感じた。
そのままお迎えが来るまでの間、私とのぞみちゃんは小さな箱の中でキスをし続けた。
その日から私とのぞみちゃんは手をつないで歩き、ふたりでお絵かきをし、跳び箱の中で小さなキスを毎日続けた。
先生達も友達も皆が、私とのぞみちゃんの仲を見守ってくれた。
もちろん、跳び箱のことは内緒にしていた。

そんな日が続き、季節が変わり、卒園の時期が近づいた頃、私は母親に連れられて大きな小学校に行った。
体育館には大勢の大人達や子供達が集まり、そこから数人ずつに分けられ、教室に連れられて、足し算や引き算をした。
別の教室ではケンケンパをしたり、縄跳びをした。
また別の部屋では、大人が2~3人いる前で、父や母や妹のことを聞かれ、仲の良い友達の話を聞かれた。
まるで意味が解らなかった。

私とのぞみちゃんの園生活は変わらず、ふたりでいるのが当たり前になっていた。変わらず、箱の中での秘め事も続いていた。

そんなある日、
「みんなもそろそろ卒園ですね。小学校は何処に行くのかな?」
先生がそう言った。
私が入学する小学校は親に聞かされて、自分でも”ああそうなのか”と思っていた。
「附属小学校です!」
先陣を切って私が言うと、周りの友達の表情が変わった。
「えー!○○小学校じゃないの!?」
「うん違うよ!」
「じゃあ仲間外れ!」
いまいち事態が読み込めなかった。
今に思えばそりゃそうだ。地域の園に通えばその地域の校区にある小学校に行くのはごく自然なことなのだから。
しかし私は皆も一緒に私が行く小学校に通うものだと思っていたから、
「なんでみんなは附属小学校に行かないの?」
と聞き返した。
すると、
「わたしと一緒に行かないんだ・・・」
のぞみちゃんが言った。
え?のぞみちゃんと違う小学校に私は通うのか?
あれ?なにかとんでもないことになっているんじゃないのか?
あんなに芯が強くて優しいのぞみちゃんが、大声で泣いた。
それから数日のことは覚えていない。

結局、私の進学と同時に我が家が引っ越すことになり、引っ越しの当日、のぞみちゃんが彼女のお母さんに手を引かれて初めて家に来た。
引越し業者が動き回る中、私の母が、私が地元の小学校ではなく附属小学校に進学することをのぞみちゃんのお母さんに説明していた。母親同士で仲は良かったらしいが、進学については特に話題にも登らなかったので話をしていなかったらしい。
引越し先の住所と電話番号を伝え、泣きじゃくるのぞみちゃんを置いて、泣きじゃくる私を載せた車は走っていった。

初めての小学校での初めての新学期。
私の父は一般的なサラリーマン、母は美容師として働いており、私は妹と一緒に、鍵っ子だった。いわゆる平凡な家庭育ちだった。

しかし周りにはそりゃもう凄い同級生がわんさか居た。
社長令嬢やら医者の息子やら弁護士の息子やら・・・。
当然、勉学に対しても並々ならぬ意気込みようだったが、勉強に対してあまり真面目に取り組んでいなかった私は、周りからあっと言う間に突き放された。。。
正直、小学校の6年間は嫌々勉強をしていた記憶しか無いと言ってもいい。
楽しい思い出は皆無に近い。
あるとするなら、修学旅行で京都・奈良に行ったことくらいか。
そんな毎日だったので、私の記憶の中ののぞみちゃんはすっかり身を潜めていた。
のぞみちゃんから、たまにかかってくる電話や届く手紙はあっても、正直記憶に残っていない。
まあそんな小学校生活だったわけだ。

そして中学進学。
私の学校からは附属中学に進学するのが一般的で、特に成績の良い友人達はラ・サールやら灘中やら神戸女学院などに進学が決まっていた。
私はデキが悪かったので、付属中に行ければ御の字くらいに思っていたのだが父がそれを認めず、私立の中学校の入試を受けろ、と言い、私もその言葉に乗せられて・・・と言うより半ば惰性で入試を受けた。
結果、デキの悪い私は案の定、受験に失敗した。
そして、校区にある公立中学に進学することになった。

入学式。知らない顔ばかり。他の者達はきゃあきゃあと騒いでいた。
いざ授業が始まると、驚きの連続だった。
授業の内容が、小学校6年生の頃に受けていたものとほぼ同じだったからだ。
ノートにペンを走らせる事も無く、テストは上出来。成績も優秀。
『こりゃあ楽な生活ができるな』とあぐらをかいていたら、2年になる頃にはさっぱり理解できない授業が続いた。
同時に、『悪ガキ5人組』のひとりになり、毎日をダラダラと面白おかしく過ごしていた。その上何故か『悪ガキ5人組』に後輩の追っかけ集団までいた。
更に同時に、夕方からはバイトもこなした。
取り敢えず流れる月日に任せるがまま、学校生活を過ごしていた。

2年のとある日。
休み時間の教室で友人達とだべっていたら、
「あんたにお客さんらしいよ」
とクラスの女子に声をかけられた。

廊下に出てみると、1年の頃に同じクラスだった女友達だった。
「なに?なんの用?」
ほぼ同時にグッと手首を掴まれ、
「こっちへ来てっ!」
と言いながらダダダっと渡り廊下の突き当たりにある階段下へ連れて行かれた。
「なに?」
苛立ちながら言うと、
「あんた今、彼女とかいるの!?」
「いや、いないけど。それがなに?」
「1年の頃に付き合ってた彼女とは別れた!?」
「うっさいな。別れたよ」
「良し!じゃあこっちに来てっ!」
また手首を掴まれ、今度は屋上まで連れて行かれた。

雲ひとつ無い空の日。
秋は始まっていたが、暑さは夏のそれと同じだった。
汗ばむシャツが鬱陶しかった。
「だからなに?」
「出てきていいよ!」
女友達が叫んだ。
階段口の向こうから、色白で髪の長い、もの凄い美人が歩いてきた。
・・・こんな娘いたっけ?てか誰これ?
こう言っては何だが、1年の頃から始まり、2年になって『悪ガキ5人組』を作ってからは更に加速して、学校では私のことを知らない者は居ないと言っても過言では無かった。だからこそ余計に、逆に私が知らないこんな美人がいたことに驚いた。
「やっと逢わせることができた!じゃああとはふたりでっ!」
女友達は、私と美人を残して階段を駆け下りていった。
呆気にとられた。


風に吹かれて、シャツも乾いた気がした。
それよりも、その美人さんの長い髪が風に揺れるのに見とれた。
「私のこと、覚えてる?」
じっと見つめられた。
記憶を手繰ってみた。。。
美人さんの瞳を見ていたのか、それとも顔を漠然と見ていたのか、何となく焦点の合わない目をしていた私の視線を、美人さんの指が誘った。
胸を指差して、トントン。
「のぞみちゃん!?」
そうだ!のぞみちゃんだ!嘘だろ!どうして!
「どうしてここにいるの!?」
私が言うや否や、
「良かった!」
そう言って抱き締められた。
呆然と立ち尽くした。
何が何だか解らなかった。
のぞみちゃんの両肩を掴み、身体を離して、
「どうしてここにいるの!?」
のぞみちゃんは、
「どうしてって・・・校区にある中学はここしかないから」
ああそうか。言われてみれば確かにそうだ。
「僕がこの学校にいるのも知ってたの?」
「友達から聴いて知ってた。でもその時彼女いたよね?それに今は下級生の追っかけもいるし。 だから邪魔したくなかった」
いや、そうじゃなく・・・もっと早くにもっと普通に逢いたかった。
彼女とかどうとか関係無く・・・いやそりゃもちろん彼氏・彼女になれれば尚良いけど。
なんてことだ。。。
「私ね、この学校に入って、まだ10回も登校してないんだよ」
「え・・・?どうして?」
「私にお姉ちゃんがいたの覚えてる?」
「あー・・・確かひとつ上のお姉ちゃんだったっけ」
「お姉ちゃん、去年亡くなったの。心臓病で」
亡くなった・・・?
心臓病で・・・?
心臓病・・・って、のぞみちゃんも心臓病じゃないか。
「そうか・・・。のぞみちゃんは大丈夫なの?」
真面目な顔が、少し和らいで、
「ううん。今日はお母さんと一緒に休学届を出しに来たの」
「休学?入院するの?そんなに悪いの?」
我ながらなんてデリカシーの無いことを聞いているんだろうと思った。
でも止められなかった。
「だから、せめてあなたにだけは逢いたくて。せめて好きって言いたくて」
「僕も・・・好きだよ。跳び箱の中でしたキスのことも覚えてる。と言うより忘れられないし忘れるわけがない」
両手を握られて、そしてまた抱き寄せられた。
鼓動を抑えられなかった。
のぞみちゃんの髪がくすぐったかった。
風が吹いてて良かった。
のぞみちゃんに逢えて良かった。
涙を止められなかった。
私の汗ではない、のぞみちゃんの涙らしいものが私の肩を濡らした。
もうそこからは嗚咽を出しながら抱き合って泣いた。

男友達「絶対に離すなよ!!」
女友達「あんたが彼女を支える番だから!!」
ふたり抱き合ったまま、声だけで誰だか分かった。
女友達「授業サボれっ!!」
グッとのぞみちゃんの腕が強くなった。
「分かってる!だから邪魔するな!」
そう言ったものの、のぞみちゃんの肩に顔を埋めているので声にならなかった。
チャイムが鳴り、友人達は降りていった。
「サボろうか」
ふたりで屋上の隅にしゃがみこんだ。
「いつ退院できるの?どこの病院に入院するの?」
私から切り出した。
「いつ退院できるのか分からない。病院は医大」
「そっか・・・」
今まで、馬鹿げててそれでいて楽しい生活を送っていた自分を悔いた。
何かしてあげられることがあったはずなのに。
子供の頃、あんなにのぞみちゃんに助けられたのに。
もう自分が情けなくて惨めでどうしようもなかった。
「ひとつだけ、本当にひとつだけお願いがあるんだけどいいかな」
まっすぐ瞳を見据えて、のぞみちゃんが言った。
「いいよ。もちろん」
こんな晴れの日で良かったと思った。
「私のこと、忘れないで」
続けて何か言おうとしたらしいが、嗚咽で言葉になってなかった。
「さっきも言ったけど忘れないって!忘れられるわけがないって!」
子供の頃のような小さくない、幼くない、大人のキスをした。

のぞみちゃんの手を引いて、階段を降りて、駐車場に向かった。
途中、人目がないのを確かめながら、何度も大人のキスをした。

駐車場にはのぞみちゃんのお母さんと、のぞみちゃんの担任がいた。
のぞみちゃんのお母さんが優しい目で、私に声をかけてくれた。
「○○くん久しぶり。大きくなったね」
「はい。大きすぎるくらい大きくなりました」
目を腫らしているふたりに気づいているのだろうけれど、知らぬふりをしてくれた。
静かに車に乗るのぞみちゃんを見つめた。
助手席に座り、ウインドウを開けたのぞみちゃんが、そっと手を伸ばした。
私も手を伸ばし、その手を優しく包んだ。
涙を流すのぞみちゃんと、涙を流すのぞみちゃんのお母さんの乗った車がゆっくりと走っていった。
あの日とは違い、今度は私が置いていかれた。

私の住んでいる街から医大には結構な距離があった。
バスに乗っても1時間はかかった。
それでも行ける日はどれだけ無理をしてでも逢いに行こうと思った。
案の定、クラスメイトには囃された。
でもそれを止めてくれたのは女友達だった。
女友達が皆、口を合わせたように、
「ふたりを茶化したり馬鹿にしたりするなら絶対に許さない」
そう学年中に言って回ってくれたらしい。
「私達は何回も何度もあんたに助けられたからね」
そう。私はいつも男女問わず友達の相談に乗っていた。
それを助けたと言えるのかどうか分からないが、本人達がそう言ってくれているのなら、その恩に甘えよう。

屋上の日と同じような快晴の日。
バイトも休みで他に予定も入れなかった日。
自転車とバスを乗り継いで、のぞみちゃんがいるはずの医大に向かった。
病院に着いたのは良いが、のぞみちゃんの両親に断りを入れるのを忘れていた。それにそもそも逢いに来ても良いのか了承ももらっていなかった。
病院の待合にある電話BOXに入り、アドレス帳に記したのぞみちゃんの自宅に電話をかけた。でも誰も電話に出なかった。
迷いに迷ったが、受付で自分の名前を告げ、のぞみちゃんの病室を尋ねてみた。
「○○○号室です」
受付嬢に教えてもらった部屋に向かった。
号数と名前を確認し、ノックをした。
返事をしてくれたのはのぞみちゃんのお母さんだった。
「来てくれてありがとう」
まだ中学生の私でも、お母さんが疲れているのが分かった。
「のぞみ、いま寝ててごめんね」
「いえ。僕のほうこそ何の連絡もせずにすみませんでした」
お母さんに誘われて、のぞみちゃんのベッドの隣の椅子に腰掛けた。
心臓病だ。
心電図に点滴にその他色々・・・大人じゃない、知恵のない当時の私にはそのくらいの認識しか出来なかった。
屋上で逢った時より、何故か美しく見えた。

1時間以上過ぎていたと思う。
「お母さん・・・」
のぞみちゃんが目を覚ました。
「なあに?」
「喉乾いた」
「わかった」
吸飲みで水。
「○○くんが来てくれてるのよ」
「約束通り来たよ」
「本当だ」
自然と涙が溢れた。お母さんも泣いていた。
のぞみちゃんは、少し笑っていた。
「お風呂入っていないから恥ずかしいな」
のぞみちゃんはそう言うと、笑いながら涙を流した。
特に話題は持ち出さず、この時間を大切にしようと思った。


「また来てくれる?」
「もちろん。バイトが休みの日には絶対に来る」
「お母さん○○くんにジュース買ってきてあげて」
もう察した。
お母さんは、静かに部屋を出ていった。
「お母さんが帰ってくるまで時間が無いからこっちに来て」
さっきより少し強くなった声で私を呼び寄せた。
「黙ってキスして」
両手で、のぞみちゃんの両頬を支えて、キスをした。
「ううん、大人の」
ふたりで、大人のキスをした。
そしてまた椅子に腰を下ろした。
お母さんがエメマンを買ってきてくれて、お礼を言い、一口飲んだ。
窓の外はもう朱く染まっていた。
「面会の時間が終わるのでそろそろ帰ります」
「来てくれて本当にありがとう。これからものぞみをよろしく」
「○○くんまた来て」
「来ないでって言われるまで来るから」
笑わせようと思って言った。
「そんなこと言うわけないでしょ。だから来て」
少し怒りながらのぞみちゃんが言った。
「ごめん。じゃあまた来るね」
のぞみちゃんの手を握り、そしてお母さんにお辞儀をし、部屋を出た。

病院の敷地内にあるバス停でバスを待った。
西の空はすっかり朱くなっていた。
雲ひとつ無い秋の夕暮れ。
飲みかけの缶コーヒーを手にして、到着したバスに乗った。
バスに揺られている間、私は眠った。
その後、目が覚めると降りるバス停の少し手前だった。
缶コーヒーを片手にバスを降り、残ったコーヒーを飲み干した。
空き缶を自転車のカゴに入れ、ゆっくりとペダルを漕いで家路についた。
スマホどころか携帯電話もポケベルも無い時代の話。

翌日、日曜はボーイスカウトの活動日だった。
制服姿でスカウト仲間とあれこれ遊んだ。
月曜。いつもと変わらず学校に行った。
数人の女友達にのぞみちゃんのことを聞かれ、元気だったよ、と返事をした。

4時限目が終わると昼休み。
特に黒板に目を向けるでもなく、ノートに書き込むわけでもない。
窓側の席の一番うしろの特等席(個人的に)、窓から入る風を感じていた。
まだ暑い日が続いていたので教室の窓は出入り口も全開だった。
なんとなしに時間を流していたら、
「○○先生ちょっとこちらに」
声のする方へ目を向けると、学年主任と担当教師が廊下で会話をしていた。
するとすぐに担当教師が、
「○○、学年主任についていけ」
と言った。
あれ?何かしでかしたっけ?
周りの友達も不可思議な顔をしていた。
言われるまま席を立ち、学年主任についていった。
廊下の突き当りで、
「○○のぞみが亡くなったと、さっき彼女のお父さんから電話があった。
彼女のお母さんがどうしても来てほしいと言っているらしい。
お前のお父さんにも了承をもらっているから、今すぐ病院に行け」
そう言って学年主任がバス代にと財布から札を差し出した。
「いや、金なら持ってる」


生返事をして教室に戻り、何故か机の中の教科書を全部カバンに詰めた。
友人達は何とも言えない顔を向けていたが、どうしようもなかった。
黙ったまま教室を出て、自転車置き場に行き、惰性で自転車を漕いだ。
その時、何を考えていたのか思い出せない。
恐らく何も考えていなかったのだろう。
ただ自転車に乗ってバス停に行き、バスに揺られて病院に着いた。

病室は覚えているのでエレベーターに乗って、病室の廊下に出た。
病室の前には何人かの大人が居た。
ただ病室に向かうために歩き、大人達の目を無視してドアをノックした。
ドアが開き、のぞみちゃんのお父さんとお母さんに招き入れてもらった。
のぞみちゃんの寝ているベッドには、もう機械が何も置かれていなかった。
顔には白い布が被せられていた。
黙ったまま、のぞみちゃんのベッドの隣に立った。
今思えば、お父さんにぶん殴られても仕方のない事だったと思う。
私はのぞみちゃんの顔にかかっている布を取り、乾いた口唇にキスをした。
お父さんが近づいてくるのがわかった。殴られても良いと思った。
それをお母さんが止めてくれた。
お父さんが、
「あんなに小さかった○○くんがこんなに早く大人になるなんて」
そう言って、泣いた。
何故お父さんが泣いたのかわからなかった。


「苦しんだんですか」
誰に問うでも無く言葉にした。
「ううん。眠ったまま、だった」
お母さんだ。
「そうですか」
「今朝早くだったんだけど、○○くんに連絡をしないといけないと思ってたけど、私達もどうしていいかわからなくて。少し落ち着いて○○くんの家に電話したんだけど誰も出なくて」
「すみませんでした。うちの両親は共働きなので」
多分こんな会話だったと思う。

その後のことは正直覚えていない。
通夜や葬儀、火葬を行ったのだろうが、全部記憶から抜け落ちている。
私の父も母も全て参列したらしいし、私も参列していたらしい。
しかし何一つ覚えていない。

学校は、数日休んだ。
普段はうるさい両親が、それを黙って見過ごしてくれた。
何日か過ぎた後、ようやく学校に行こうと思った。
いつも通りの通学路、いつも通りの校舎。
教室に入ると、明らかに空気が違っていた。
腫れ物に触るようだった。
女友達のひとりに声をかけ、のぞみちゃんの教室に着いてきてもらった。
その間、女友達は黙っていてくれた。
教室に入り、あの日、屋上まで私を引っ張っていった女友達を呼んだ。
すでに彼女は泣きじゃくっていた。着いてきてくれた女友達も泣いていた。
黙ったまま、彼女の手を引き、屋上へ登っていった。


そこは、あの日のような快晴では無かった。
「いい想い出を作ってくれてありがとう。僕ひとりだと何も出来なかったと思う。と言うか何も出来なかったに決まってる。だから、本当にありがとう」
「そんな・・・」
一層声を上げて泣く彼女の声は、多分廊下を降りていっていると思った。
「のぞみちゃんは、いつまでたってもいくつになっても、保育園の頃のままののぞみちゃんだったんだよね。芯が強くて優しくて。お前にこんなこと言うのは恥ずかしいけど、子供の頃の僕はめちゃくちゃ泣き虫だったんだよ。でものぞみちゃんがスプーンで一緒に」
言葉が繋がらなくなった。
涙が止まらなくなった。


それでも時間は流れていた。
チャイムが鳴った。
ふたりで階段を降りて、それぞれの教室に戻った。
男友達は、じっと私の目を見つめていた。
女友達は、皆、目に涙をためていた。
黙ったまま席につくと、『悪ガキ5人組』の男友達がひとり立ち上がり、
「○○の友達は俺らの友達。だから○○の彼女も俺らの友達。
○○が笑う時は一緒に笑いたいし、○○が泣く時は一緒に泣きたい」
そして教室が涙で溢れた。
担任が教室に入ってくると、そのやり取りを知ってか知らずか、一緒になって泣いてくれた。


小学校3年の誕生日、家でダラダラしていると大きなダンボールが届けられてきた。少なからずワクワクした。
夜になって父が『これ誕生日プレゼント』と言って、ダンボールの中身を取り出した。真っ黒なケースに入っていたのは小さな天体望遠鏡だった。
これと言って星が好きだったわけでは無かったのだが、それでも嬉しかった。
その日から私の『天体観望』の趣味が始まった。
晴れの日には、その夜に望遠鏡を持ち出すのが楽しみになった。
晴れの日が好きだ。
特に快晴の日は最高だ。


そして今も。
あの日の屋上のような、雲ひとつない空が好きだ。
そして、ほろ苦いエメマンも。
忘れないように。
・・・違うな。
忘れたくないから。

私の心の中にある、小さくて幼い、私にとっては大切な記憶。