写真は夜桜。久しぶりに街灯の角度と全景がピッタリときた(4月5日、好天の夜)。

桜の花びらたちに、今年は人の生き死にを見ていた。

外見が美しくても不細工でもみな同じ桜の花びらにしか見えない。いつ開花し、いつ散るのか厳密にわからない。
最後まで木にはりつき、最期がくるとはなれ散る。

落ちた花びらははじめは美しく記憶されても、色あせ、変色し、すぐにチリになっていく。木は葉になり過ぎ去っていく。過去になる。

人も死んだあと誰が正確な意味で覚えているだろう。祈ってくれるだろう。チリになってから、実はここにこんなにも美しい花びらが生きていて、ついていて、落ちていたのですよといえども、写真や動画があろうと、誰も気にしないだろう。万が一気にしてもすぐ忘れるだろう。

それだけではそれだけの話である。意味はない。
ただ私たちは生きた花びらだ。しかしそれではまだ動物と同じだ。

花びらと違うのは考えることだ。パスカル流に考える花びらか。さらに感謝できることだ。つまりこの大自然に、自分を育ててくれた木に感謝することができる花びらなのだ。さらに(私たち神様を信じる身としてはこうである!)、その全体を宇宙をこえて、つくられたかたに、造物主に感謝をささげることができるということだ。

さらに賛美をささげることをした人たちがいる。さらにそれをささげ尽くした聖人たちがいる。さらにそれと一体の生を保った聖人たちもいる。


だからこそ、生きているうちにそれを行う必要がある。私もみな、多くの人が桜の花びらのように散るのだ。一体誰が救われるのだろう。いま、いま行うのだ。死んでチリになる前に。

こんなにいろいろなことができる花びらはないのだから。