ある行動を起こそうとは思うけど、
面倒臭いなぁ・・・って億劫に感じる時、
こころの奥では、「やらなければならない」 と、
自分で自分に、強制している。
強制していながら、なんとかやらなくて済むように、
やらない理由を正当化しようと、思考をめぐらしている私がいる。
ほぼ100パーセント、相手の非(と見えるもの)を持ち出し、並べ、
やらなくてよい理由をみつけようとしている。
そんなときは立ち止り、
ホーリースピリットにこころを向けると、気付くことがある。
その行動は、
愛が動機になっているのか、
犠牲(恐れ)が動機になっているのか。
愛が動機となっているのなら、行動を起こすにあたって
わざわざ、しのごの言う必要はない。
ただ愛を、そのまま表現(行動)すればいい。
犠牲が動機となっているのなら、行動を起こす前に
ホーリースピリットに知覚の訂正をお願いする。
自己犠牲の気持が少しでもこころをよぎったら、
そのままにはしないで、
ホーリースピリットにその感覚を差し出し、訂正してもらう。
すると、本当のことが見えてくる。
愛を表現するのに、自己犠牲なんて、まったく必要ではないということが。
私達は人との関わりのなかで、
愛と自己犠牲を混同していて、
自己犠牲が愛の表現であると間違えてしまう。
自己犠牲に、甘美な諦めを見出し、
見返りに愛を返してもらえると、期待している。
もう、このことで、エゴの仕組みをぐるぐると繰り返したくはない。
ただ、愛は愛としてだけ在る、ということを教えて下さい。
なんて、色々書いているけど、
じつはただ、帰省してくる姉家族と兄家族のお布団を、
私が敷くのか?という迷いから生じたこころの葛藤(笑)
いつもしていることだけど、何となく府に落ちない気持がずっとあったの。
でも、今回、ホーリースピリットに託したら、すっきりしました。
ありがとう![]()
![]()
![]()