先週の金曜日にNHKの朝ドラ「虎に翼」の本編が最終回を迎え、
その翌日のダイジェストをもってドラマそのものが終了しました。
本ドラマでは「はて?」をはじめとして、数多くの名言が発せられました。
いずれも共感でき、世の中で虐げられている人々に寄り添う名言だと感じました。
特に、私が「その通りだ!」と思ったのは「よね」さんの
暴力は思考を停止させる
でした。
尊属殺事件の話でのことです。
尊属殺事件の記事
【虎に翼】実父から15年間性加害を受けて出産「尊属殺人事件」~弁護士親子の奮闘 - Yahoo! JAPAN
こんな鬼畜の猛毒親など、寸分たりとて尊敬などできるわけないでしょう。
こんなのを尊敬できるなら、その人はもはや人間ではありません。
令和の世となった今もなお、
「しつけ」「指導」「体罰」と称した錦の御旗を振り翳し、
立場の弱いものをやりたい放題にいてこまし、
悪びれもせず自分らは正しいと宣う野蛮人ども
がわんさかいます。
◆いてこます:大阪のことばで「ボコボコに殴り飛ばす」こと。
狂った世の中
体罰は必要だと「非常に思う」親は日常的に体罰をするケースが26%に上る<厚生労働省調査> (mynavi.jp)
こいつらにこの言葉を何百回何千回聞かせて、
その腐りきった性根に叩き込ませたい氣分です。
こいつらのような馬鹿でも、千回も聞けば少しは分るか?
だいたい、我が子だからと生徒だからと平気でいてこますようなことが、
何故に今もまかり通っているわけ?
この状況に対して「はて?」と思わず、むしろ素晴らしいことだ、必要なことだなどど宣い、
勘違いしている野蛮人が今も多い。
よねさんの言葉は
抵抗する気力を奪い、死なないために全てを受け入れて耐えるようになる
と続きます。
全くもってよねさんの言う通りで、その通りだとしか言いようがありません。
子どもが毒親や暴力教師から徹底的にいてこまされると、このようになってしまうのです。
この言葉に反論できる人、いる?
もしもいるとなれば、その人は頭がいかれています。
例えばDV、中学、高校の運動部や、職場での上司からの執拗な叱責。
暴力を受け続けていると「嵐が過ぎ去るを待つ」状態になってしまい、
もはやその暴君に逆らう気力を失ってしまうのです。
嵐が過ぎ去るまで待つ気力すら消え失せてしまうと、自ら死を選ぶまでに追い込まれることも有り得るのです。
暴力は、誰も幸せにしません。
暴力で人を支配して幸せだと感じるなら、その人はもはや人間ではなく鬼や悪魔です。
特に、ニッポンの学校の「指導」には、なぜか暴力が含まれることが多いのです。
私から言わせれば、それは「指導」ではなく「調教」です。
つまり、子どもを畜生以下にしか見ていないということなのです。
はて?なぜでしょうね?
子どもには人権、ないんですかね?
このような状況に置かれた若人の存在をわかろうともせず、
目上だから、親だから、教師だからと何がなんでも感謝を強制するような御仁を、
私は心の底から軽蔑しております。
「暴力」はしつけや指導、愛情の裏返しではありません
「暴力」はしつけや指導、愛情の裏返しではありません|TOKYO YOUTH HEALTHCARE
令和になってやっと
親の体罰禁止、20年4月から 改正虐待防止法が成立 - 日本経済新聞 (nikkei.com)
「カンセンタイサク」も、それに似た部分が多分にあります。
「カンセンタイサク」という錦の御旗を振り翳し、
「自粛」と称してあらゆる物事をやめさせてしまう圧力が罷り通ってしまいました。
特に子どもや若者に、その矛先が鋭く向けられました。
若年者の心を、大人(もっといえばお上)がとことんいてこましたのです。
これはまさに、精神的な虐待行為以外の何物でもないのです。
大人は何の疑いもなく従う御仁が大多数でしたが、
子どもはといえば、本ドラマでいうところの「スンッ」状態だったのではと察します。
その結果、茶番マスクの強制(→個人の判断)が終了したとしても、
未だに茶番マスクを外せない子どもたちや若人が多いのです。
(正確には「個人の判断」から「より一層個人の判断」になった)
現実の世界でも、おかしいことがあれば「はて?」と言わねばならないのです。
沈黙は承認になってしまうのです。
本ドラマの初期から、私はその志を思い返しました。
そして、よねさんのこの言葉で再度、その志が燃え上がりました。
567の茶番も、暴力行為・虐待行為も、絶対に容認してはならないのです。
それだけに限らず、自分の尊厳を侵そうとするあらゆる不快な事象や言動には「はて?」と言いましょう。