この記事は少し気が重いかも。死について語るからです。リアリティをもってそこに向きあってる人が、ちょっと思い出して不安になったりするんじゃないかと思う・・・。そう思うのに書いてしまう。自分が不安だから。

 

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 いつも不思議で、いつも気を重くすること。どうして人生の最後はあんなにも苦しいんだろう。どうして苦しんで死ぬということがあるのだろうかと。

 

 そんなことは小学生の時にでも済ませておけというような話でしょうか。

 

 残骸。このブログを書き始めた理由の一つ。私自身はなにも問題ないですが、人よりちょっとだけ向き合わないとって感じだったりします。

 

 こんなことは、昔に一回ありました。その人はもういません。

 

 結構、頼りにしてたから、その苦しみを見て、私は人生の道しるべを失ったような気がしました。そう、あの人だってただの人間だから、人間に起こることは当たり前に起こるんだな。あんなに、そうそういる人間じゃない、よくもあんなバイタリティを持ってるな、なんてことを常日頃思っていても。

 

 思ったよりも早く、またそういう報せを受けることになった。思えば、ここ数年ずっとこんな話です。親密度は違うけど、基本的に一緒に住んでたり、体調が悪化して一緒に住むようになったりで、こんなことばかり(そして今年はさらに金銭面でもひどいのがきそうです)。

 

 ちなみに、この数年の間に、私自身もある致死率の高い感染症の可能性があり、緊急で搬送されました。まぁ、診断が間違ってたんですけど。でも、あのお医者さんたちのシリアスな表情は忘れられません。そのときの感情やいきさつは長くなるので話しません。

 

 とりあえず、死ぬことより、苦しむことに脅えがあったのです。悔いは一切なく、楽にいけるならむしろ「あぁ、もう色々悩まなくていいのか」と思ったものです。もちろん、あまりに急な展開で現実を受け止め切れていたとは言い切れません。

 

 ただそのとき思っていたのは「あぁ、死ぬことを前提に生きてればよかったなぁ」ということでした。万葉集の詩を思い出していました。「黒闇の後に来るを欲はぬときには、徳天の先に入ること莫れ」。なんのこっちゃ、注釈を読み、意味を大雑把に言えば「死にたくないなら生まれてくんな」ということでした。

 

 無茶言うな。

 

 ただ、理屈はわからなくはない。要は車輪です。「生きたい」という踏み込む動きが、反対の方向で「死にたくない」という苦しみを持ち上げる動きになっている。勝つこと、美味しいと思うこと、喜びというのは全て反対の苦しみを生じさせている。だから車輪の中心に、0地点に行かなければ救いはない。

 

 でも無茶言うなって話。

 

 ポエマーなのでちょっと辛い気持ちをブログにしてます。でもあんまり書きすぎると、なんかよくないです。ちょっと具体的に書いては消してを繰り返してます。なんというか、ポエムとして読んでもらいたいみたい。

 

 ただ一つ本音を言うと、とりあえず、「人が不安そうにしてるのはつらい」。これだけ。

 

 自分だけでも、これからは死とか苦しみを前提に生きてみようかなと思う。すべての楽しいものは結局なくなり、そして帳消しになるほどのものが僕にもいつかくるんだろうな。他の人にも来てるんだから。

 

 そのとき安らかでいられたら、これはもう人生の覇者と言っていいのではないか。