サンボマスターの「できっこないをやらなくちゃ」をなぜか聴いていて、このタイトルに心が揺さぶられた。聴いてるときは感動した。でも、ダメなんだ。
普通ということが耐えられない。ほとんどのことはどうなるか決まっている。確率というのは決まっている。みんなにおとずれるものは自分にも自分の周りにも訪れる。
落ちこぼれから逆転するのは確率が低いのだ。不登校が社会でうまくいことも確率が低い。仕事を辞めてフリーランスで働いてもうまくいくことは少ないし、店もほとんどが閉店するのだ。
癌になれば苦しんで死ぬのだ。自分の母親だろうとなんだろうと。
辛さの中にいる。それでも口にしてはいけない言葉を飲み込んでいる。もう飲み込み過ぎて何も言えない。肩を抱き寄せることしかできない。それだって相手はもう苦しいのだ。
少し前までは本当によかったのだ。もしかしたら本当に奇跡があるかもと思ってしまった。そうでなくとも、もっと長い間安らかに暮らせるかもと思ってしまった。また喫茶店で、家族みんなでとりとめのない話をできるかもと。
自分の中にも変化があってもう「生まれてこないほうがいい」とか「早くに死んだほうがい」なんて思わなくなってきていた。死んだ後のことも、どういう映像が流れるか、少し理解できた気がしていた。とても根拠のある体験じゃないが、自分の中で信じれたから。
みぞおちが気持ち悪いし、痛い。もう楽になりたい。早く迎えに来てほしい。
ずっと吐き続け、食べることができない。黒い色の嘔吐を出し続けている。もう駄目なんだな。
ただちょっと食べ過ぎただけかと思っていた。むしろ良くなってきているからそうなったと思っていた。でも、これが階段を下りることだったのだ。そうだ、いつも悪くなる時にはその前に良くなる。そして、元の地点に戻ろうとすると一気に叩き落される。もうそうなったら元には戻らない。父親のときに何度も体験したことだ。それなのに期待していた。
よくわからん健康器具もだめ。漢方もだめ。高い霊芝でもだめ。自分で作った無農薬野菜だろうが、安全性を標榜する食事を通販で注文しようが、ネットの癌を退治する食品を食べようがだめ。
訪問医も、在宅治療も、緩和ケアもだめ。諦めても楽にはならない。多分超金持ちならある程度はできるかもしないな。
心配も愛情もだめ。お祓いもだめ。毎日神社に祈ってもだめ。神社の境内の草をきれいに、ひとつ残らず取る人だったけど、こういうことになる。神に頼っても自分に罪があるのか、何か怒らせたのか、悩みが増えるだけ。思考の現実化ももちろんだめ。
すべて「当たり前のこと」。当たり前がつらい。
父親の時はうめき声、祖父祖母部屋の中で動く音、母は吐く音。ずっと病人の音に神経を尖らせながら生きている。辛い。眠りから目覚めて、暗い部屋で戦っていると思うと辛くてしょうがない。だから物音がするたびに身体がこわばる。
楽にしてあげる選択が欲しいよ。
不利であればあるほど、うまくいったとき偶然ではない生き方ができたということだ。たまたまうまくいった思想になんの価値があろう。人間は何が必然であるか知るためにいきているのだから。
こんな考えはまったく病気の前では無力だ。大岩を歯で砕いて彫刻を作れと言われて、無理以外のなんの必然があるのだ。試すまでもない。それでも岩を噛まなくてはいけない。これが最後の最後にある結果なら、今までのことに何の意味がある。せめて頭を思いっきりぶつけたほうがマシだ。