顔無シ人。 | -遠山月子の-明日はどっちだ。

顔無シ人。

不意に起きた、起こるはずのない事象に対して人は無防備だ。
幽霊の 正体見たり 枯れ尾花。
理解してしまえばどうと言うこともないが、理解できていないうちは仮想のものもリアリティをもって迫ってくる。

私事だが昨日今日と連日、夜にゆったりと道を歩く老婆と近所で会っている。
丸い背に、か細い脚腰。街灯の下、不安を煽るようなスローモーションの歩みと、なびく白髪。
日本昔話のように山奥で出会ったら絶叫もするだろうが、ここは仮にもすぐ近くに国道が走っているベッドタウン。
失礼な話である。
だが例え散歩だとしても徘徊だとしても、遅めの時間に二晩連続で会うと少し緊張してしまう。
老婆が私の住むマンションの入り口の前に差し掛かろうかというとき、私の足が相手の歩みを追い越した。
老婆に背を向け、オートロックと手動のハイブリッドなドアを開けて中へ。
勢いよく閉じてくるドアをいつものように背中で受け止め衝撃を緩和しようとした…が、ドアが閉じてくる気配がない。

背筋が凍った。
先ほどまで、ゆっくり歩いていた老婆がいつの間にか私の後ろでドアを掴んでいる……のを、想像してしまった。

振り返ると、ドアがゆったりと閉じてきた。
考えてみればバネが効かなくなっていたのか、引っ越してきた当初よりも最近はドアが強く閉まるようになっていた。衝撃音も酷い。
おそらくは住民が管理会社に話したか、気付いた管理会社がドアを直したのだろう。
酷いのは自分の妄想力である。

話は変わるが、M子という男にモテモテの元キャバ嬢がいた。
S男はM子が実際にモテているのを見たことはなかったが、M子に「今日電車でナンパされた」「前に付き合っていた、少し病んでる男が一日に70件も電話をしてくる」と言われると、そうだろうなと思う。
よく知りもしない男達に嫉妬もした。
ある時、M子はバイト先の店の前で、遠距離恋愛をしていた元彼に会ったという。
「あいつ、いるはずがないのに…わざわざ飛行機を使って東京まで会いにきたんだわ。」
それから度々、元彼がバイト先の店の周りに現れるようになった。
M子が休憩中に「今日も来てる」と電話で話すたび、S男は「俺が追い払いに行こうか?」と言った。
無視するから大丈夫、とM子は言っていた。
ある日、とうとう家の近くで見かけたと言う。
S男がM子の家まで行き、二人で過ごしていると玄関のインターホンが鳴る。M子が出た。
が、 誰もいない外が映し出されるばかりだった。
「絶対あいつよ!」
S男はM子につきまとう元彼に苛々した。ストーカー行為だ。
しかしそれ以後、元彼はM子の前に現れなくなった。

数日後、S男はM子の元彼と出くわす。
二人も顔見知り故、憤りを隠せないながらもS男はM子の元彼と話をした。
「ずっとM子のバイト先の近くうろついてたらしいけど、俺はお前がM子に近づくのは許せない。大体、仕事はどうしたんだ?」
それを聞いて元彼が首をひねる。
「俺はM子に会いたいから来た。でも東京に着いたのは昨日。それに、キャバ復帰するから店に来ていいよって言ってきたのはM子本人だよ。」
言われてみれば、そんなに長期の休みを社会人がとることは難しい。
S男は、元彼が来ているというのがM子の嘘だったと知った。
しかも、キャバクラ復帰は知っていたが自分で元彼を呼んでいたとは知らなかった。
ずっと、元彼と電話やメールのやり取りをしていたことも。
S男は性懲りもなく暫くM子と付き合っていたが、やがてM子が全く別の男と付き合うことを選んだため別れた。

「ただなぁ、未だにあの時のことで一つ疑問があるんだよ。」
それが何なのかは、私も気づいていた。
「あのインターホン、誰が鳴らしたのかなぁ。単に近所の子供がピンポンダッシュしたのか?」
その偶然を、すぐさま自分の舞台の小道具に仕立てるなんて恐ろしい。
もしM子の情念がインターホンを押した犯人なら、もっと恐ろしい。