昭和10年代、日本には治安維持法があり言論の自由が保障されていなかった。厳密にいうと当時の憲法である大日本帝国憲法上では言論の自由は保障されていたのだが、「日本臣民ハ法律ノ範囲内二於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と規定されていたものであり、あくまで臣民が天皇から恩恵として与えられたものであった。「日本臣民ハ法律ノ範囲内二於テ」というのがポイントで、この条文をその通りに解釈すると「法律の範囲を超えた言論の自由は認められない」ことになる。つまり、本来は憲法>法律の力関係だが大日本帝国憲法下で許された言論の自由に関しては法律>憲法だった。また、天皇に対するあらゆる発言は取りようによってすべて「不敬罪」を適用されかねず、平和に生きていくためにはアンタッチャブルな部分であった。言論の自由は特に大正14年(1925)制定の治安維持法によって制限された。その段階では非合法の共産党や社会党、無政府主義者など政治活動を大々的にする人間を取り締まりつつも一般の国民にはそれほど強い影響を持たなかったが、昭和16年に国民すべての言論が統制され、手紙ひとつでも検閲されてしまう、その検閲が合法となってしまった。政治的な主義主張のみならず、国家の方向性に反すると判断されただけで逮捕される、非常に怖い時代の到来である。さらに恐ろしいのは、この治安維持法の成立が、そもそも普通選挙法成立と同時だったということである。つまり国民にとって非常に華々しい権利の奪取とともに、その権利のメリットの大半を奪うような法律が制定されてしまった。昭和16年の改正後は特に、とにかく特高(警察)や憲兵の気に入らなければすべて治安維持法違反で取り締まることができた。そのために、戦争反対など口が裂けても言えなかったのである。

と、ここまで当時の国民目線。しかし、実際の生活を聞いてみると実はそれほど国民達はこの言論統制をおかしいとは思っておらず、苦痛にも感じていなかったようだ。そして、実は現代の、治安維持法の無い日本を見ても治安維持法による言論統制下の社会とそれほど大きく変わらない「隣人による無言の監視システム」が働いている。つまり、日本は法律があってもなくても、もともと同調圧力の強い国民なので、たとえば屋外でのマスクは現在義務化されているわけではないのに、猫も杓子もマスク姿。暑くても手元でハンディ扇風機なんぞ回しながらマスクをつけっぱなし。ウィルスから身を守る方法としては、屋外でのマスクはそれほど意味があるものではないのに。(特に一人で歩いている場合)なぜマスクを外さないのか。一番の理由は「みんなつけているから」である。外した時の視線が怖い。なんという無意味なマスク。そのくせに、屋内の居酒屋ではさっさとマスクを外して飲み食いしながらしゃべっている。そこに透明なプラ板も正直意味はない。しかしみんなやっているからやる。日本人は自分の考えや意見を表に出さず、大衆と合わせた行動を取る。今は治安維持法がないので外でマスクを外したところで逮捕されるはずもない。それなのに、明確な理由がないのにつけっぱなしのマスク。それだけでも、治安維持法のあった時代とあまり変わらない日本人の意識を感じる。

その意識はウクライナ問題でも同様、ロシア側につくような発言をしただけで叩かれる。西側の国だから日本は米国の方法に従わなければならない、しかしそれは国家の政治としての判断であって、国民ひとりひとりの感情は本来違って良いはずなのだ。しかし同調圧力の強い国民は少数派を攻撃し、少数派は自分の意見を自由に言わなくなる、言えなくなる。

太平洋戦争開戦時、世論は開戦に賛成派が多かった。しかし終わってみると「戦争なんて二度としてはいけない」「あれは政府が悪かった」と責任を転嫁する。誰かが嫌だと言い出せば、その力が大きくなれば戦争は国内の反乱で止められたかもしれないのだ。なぜなら日本は、攻め込まれたウクライナと同じ立場ではなく、攻め込んだロシアと同じ立場だからだ。そのことに気づかず、戦争はダメ、攻め込んだら絶対何が何でも悪いと決めつけるのは、つまり日本の過去を否定しているのと同じだ。

政権批判もそうだが、批判するのは簡単だ。しかし、受け入れて原因を追及しなければ二度と同じことを起こさないとはいえない。その点で、国を分断され選挙で彼を選んでしまった責任を取ったドイツと、責任を曖昧になすりつけ敵国の裁判によって「個人」が裁かれた日本では大きく戦争後の国民の考えや生き方が異なってしまったと思う。

日本人はもっと自分で考え、自分の考えや意見を表に出し、相手の考えや意見を受け入れてその立場にあえて立って物事を考え、責任転嫁せず批判せず、責任を持たなければならない。

あまりにも甘い考えで生きている人が多く、しかしこの国ではそのほうが圧倒的に生きていきやすいだけに、うらやましくて仕方がないと思いながらわたしはこの国に絶望している。