辞書を引いてみると曰く、「同情の気持ちが起こるさま、ふびんに思えるさま」だそうだ。
私は、この言葉があまり好きでは無かった。それは、どこか相手の上からものを言っているような気がするからだ。しかし一方で、本当に「かわいそう」という言葉が適するような境遇もある。例えば親を亡くした子供なんかに対しては、この言葉を自然と使いたくなるのではなかろうか。
だから、意識的にこの言葉を嫌って避けたわけでもないのだが、使うたびに何となく釈然としないと言うかそんな気分であった。


そこで、この言葉はどういうときに使うものなのだろうかと改めて考えてみると、三つの用法があることに気付いた。


一つ目は、自分が相手の境遇にあると思って相手の心情を考えたときに、つらい、悲しいと感じる場合である。相手の立場に立っているのであれば、自分が相手の視点でものを言っていることになる。つまりその瞬間は自分と相手の視点(高さ)を同一視しており、したがって、相手の上からものを言っているのではないと考えられる。


それに対して二つ目が、相手の上からものを言っている場合の「かわいそう」である。現在の自分よりも低次元的な思考・発想に対して、やや軽蔑的に使う場合である。たとえば過去の自分にもあった、今の自分よりも劣る考えを他の人が持っている場合などに使い、「お前はまだそのレベルでしかないのか」と言うような意味になる。これはまさに、相手の上からものを言っている場合になる。


では、三つ目に移ろう。
これは、そもそも「かわいそう」の対象が相手ではない。すなわち、自虐的あるいは自嘲的な用法で、自分の状況が周囲に比べて劣っていると思う場合に用いる「かわいそう」だ。
多くは、その発言を聞く他者がいて、その他者を和ませるために自分の状況を「かわいそう」と言ってみせている。だから、周囲に比べて劣っていると思いながらも、話者には余裕があると考えられる。



生存報告を兼ねて。

後手番。攻め切れて気持ちの良かった一局。


1 7六歩(77) ( 0:06/00:00:06)
2 3四歩(33) ( 0:01/00:00:01)
3 2六歩(27) ( 0:02/00:00:08)
4 8四歩(83) ( 0:03/00:00:04)
5 2五歩(26) ( 0:01/00:00:09)
6 8五歩(84) ( 0:00/00:00:04)
7 7八金(69) ( 0:01/00:00:10)
8 3二金(41) ( 0:01/00:00:05)
9 2四歩(25) ( 0:02/00:00:12)
10 2四歩(23) ( 0:01/00:00:06)
11 2四飛(28) ( 0:02/00:00:14)
12 8六歩(85) ( 0:01/00:00:07)
13 8六歩(87) ( 0:01/00:00:15)
14 8六飛(82) ( 0:01/00:00:08)
15 3四飛(24) ( 0:01/00:00:16)
16 8八角成(22) ( 0:01/00:00:09)
17 8八銀(79) ( 0:02/00:00:18)
18 2八歩打 ( 0:02/00:00:11)
19 2八銀(39) ( 0:02/00:00:20)
20 4五角打 ( 0:01/00:00:12)
21 2四飛(34) ( 0:36/00:00:56)
22 2三歩打 ( 0:02/00:00:14)
23 7七角打 ( 0:13/00:01:09)
24 8八飛成(86) ( 0:01/00:00:15)
25 8八角(77) ( 0:11/00:01:20)
26 2四歩(23) ( 0:01/00:00:16)
27 1一角成(88) ( 0:11/00:01:31)
28 3三桂(21) ( 0:01/00:00:17)
29 8五飛打 ( 0:35/00:02:06)
30 2五飛打 ( 0:25/00:00:42)
31 2六歩打 ( 0:21/00:02:27)
32 6七角成(45) ( 0:08/00:00:50)
33 2五歩(26) ( 0:21/00:02:48)
34 7八馬(67) ( 0:02/00:00:52)
35 8一飛成(85) ( 0:13/00:03:01)
36 4五桂(33) ( 0:11/00:01:03)
37 4八玉(59) ( 0:55/00:03:56)
38 6七馬(78) ( 0:03/00:01:06)
39 5八金(49) ( 0:14/00:04:10)
40 5七桂成(45) ( 0:03/00:01:09)
41 5七金(58) ( 0:06/00:04:16)
42 5九銀打 ( 0:22/00:01:31)
43 5九玉(48) ( 0:16/00:04:32)
44 5七馬(67) ( 0:09/00:01:40)
45 5八飛打 ( 0:32/00:05:04)
46 5八馬(57) ( 0:36/00:02:16)
47 5八玉(59) ( 0:03/00:05:07)
48 3八飛打 ( 0:01/00:02:17)
49 5七玉(58) ( 0:32/00:05:39)
50 2八飛成(38) ( 0:07/00:02:24)
51 5六香打 ( 0:34/00:06:13)
52 6八銀打 ( 0:08/00:02:32)
53 4六玉(57) ( 0:21/00:06:34)
54 5八龍(28) ( 0:21/00:02:53)
55 1二角打 ( 0:34/00:07:08)
56 4四金打 ( 0:44/00:03:37)
57 3六玉(46) ( 0:31/00:07:39)
58 2五歩(24) ( 0:25/00:04:02)
59 4四馬(11) ( 0:16/00:07:55)
60 4四歩(43) ( 0:03/00:04:05)
61 7五桂打 ( 0:32/00:08:27)
62 2八龍(58) ( 0:39/00:04:44)
63 6三桂(75) ( 0:31/00:08:58)
64 4二玉(51) ( 0:06/00:04:50)
65 3五銀打 ( 0:27/00:09:25)
66 2七角打 ( 0:22/00:05:12)
67 2五玉(36) ( 0:33/00:09:58)
68 1四金打 ( 0:06/00:05:18)
69 投了 ( 0:11/00:10:09)


30手目。最初から捨てるつもりで飛車を打った。

36手目。これは馬の道を開けるので悩んだが、攻め駒を増やすにはこの一手くらいしか無かったので止む無し。~40手目までは読んでいた。次の59銀打は、40手目を指しながら思いついた。

45手目。単純ながら強防。素直に苦しかった。88龍なら87歩で小細工出来るとか思っていたんだが……。

50手目。攻めが途切れたが、即詰みは100%無さそうなので、力を蓄える手。

54手目。25龍と悩んだが、凌がれたら53香成で一気に負けると思ったので、控え目に。手抜きは57龍~56龍で十分だし。

56、58手目。ここは正直苦しかった。あと少しのところで綱渡りをやってのける敵玉を如何に追いつめるのか……。

61手目。ここに及んで力を蓄える手を指せる相手は素直にすごいと思った。

62手目。即詰みはないと読んでこちらも力を蓄える。53香不成は怖かったが、逃げ切れると信じた。

65手目。守るなら27歩が正解か。以下は35歩、同玉、27龍、34桂、52玉…かな?5手詰くらいなら俺でもできるぜっ!


なぜ物事は一般化されるのか。

その答えは簡単で、一般化された事実の方が、多くの物事を説明するのに使えるからである。

例えば、「体調が悪いなら休んだ方が良い」と言うのは「風邪なら休んだ方が良い」とか「頭痛がするなら休んだ方が良い」とかを全部ひっくるめてくれる。

一般化された事実ほど、説明に用いやすく、議論に使いやすく、論じるに値することが多いのではなかろうか。

物事を一般化するのは、どの学問分野においても成される。様々な諸理論がある学問分野においては、それを統合しようとするのに非常に苦労しているといった話を聞いたこともある。

この「一般化」と言うベクトルは、人の思考には自然に備わっているものだとも思う。



さて。どうしてこんなことをブログで書こうと思ったのか……。それをたどろうと思う。そしてむしろ、こちらが本題である。

発端は、私が声帯を傷めたところにある。

これをブログにしようかと最初は考えた。

赤い色の痰を吐いただとか、酷い時は咳が止まらなくなって呼吸さえ覚束なくなるだとか、あれこれブログに書くことを考えているなかで、はたと気づいた。

どうして私は不幸自慢をしようとしているのだろうか、と。


そして、話はここから複雑になる。

思えば、病院では様々な患者が自分の不幸自慢をするではないか。

あるいは、酒を友人と飲みに行った日にも、不幸自慢をするヤツはよく見かける。

なぜ人は不幸自慢をするのだろうか。

私は考えた。

人が不幸自慢をするのは、自分が不幸であることを伝えることで他の人間に安心を与えるからではないか?

……いや、もしそうだとすると、相手の不幸自慢に自分の不幸自慢を重ねるのはどういったメカニズムだろうか?

いや、そもそも相手に安心感を与えるためではなく、自分が相手から哀れに思われる方が得をする可能性が高いからではないか?

そうか、きっとそうに違いない。人はどこまで行っても利他的にはなれないものだから。

「利己」と言う性質を人の本質の一つと捉える私は、ここで一旦納得できた。


しかしである。

すぐに疑問は思い浮かぶものである。

そもそも私が利己的な人間像を持っているからそれに合致するような結論を導いたのではないか。

その可能性は大いにある。

しかし、そうだとしても、否、そうだとするのならなおさら、私には結論を変えることはできないはずだ。

だから問題ないとは言わないが、まぁ仕方はない。


そしてここでまたも私の脳裏には次の疑問が思い浮かぶ。

そもそもこの例のように、人間というもの自体が持っている性質として、自分の信じる理想に合致するようにこの世を捉えるのではないか。

だとすればなおさら仕方がないのでは。

しかし、これの是非は今すぐ確認できるものでもないか……。


さて、ここに至って私は思った。

私はなぜこうも疑問を出してばかりなのだろうか。

それの答えはおそらく、私が好奇心旺盛だからだと言うことで簡単に決着は着いたのだが、ここで私は、自分が今までに出した疑問を省みた。


どうして私は不幸自慢をしようとしているのだろうか

→なぜ人は不幸自慢をするのだろうか


私が利己的な人間像を持っているからそれに合致するような結論を導いたのではないか

→人間というもの自体が持っている性質として、自分の信じる理想に合致するようにこの世を捉えるのではないか


こうして次の疑問が浮かぶ。

どうして私は物事を一般化して考えるのだろうか……。

いや、どうしてそもそも人は物事を一般化して考えるのだろうか。

ここに来て私はようやく、元の目的を思いだした。

そうだった。ブログを書こう。

そして、今に至る。


こうしてみて、自分の思考のプロセスを見直して思うことがないではないのだが……、それを書くのはまた別の機会にとさせていただく。



「声帯を痛めてああしたこうした」のくだりは全て本当です。

ですが、私に言わせればそんなことは年に二回ほどあることなので大したものでもないのですが。

一度引きこもりをした小学生高学年~中学生は、なかなか復学しないそうですね。

その理由はいまさら戻っても皆と巧くやっていけそうにないからだそうです。

小学生低学年くらいだと、「今度運動会があるからおいでよ」、「今度の遠足には参加したら」と学校のイベントを餌にして生徒を学校に呼び戻す手法が通用するそうなのですが、小学生高学年にもなると「行かない。そんなときだけ学校に来るヤツなんて、なんか嫌なヤツじゃん」と、他者との関係性を考慮することができるために、余計に学校に戻れないことが起こるそうです。


さてはて。

何でこんなコトから書き始めたかおわかりでしょうか。

そう、「いまさら戻っても皆と巧くやっていけそうにないから」です。

はい、嘘です←


いや、でも、久しぶりだし何を書けばいいのか困るなぁ……とか思っていたのは本当です(ぁ

まぁ、とりあえず近況報告と題しまして、その題の通りに近況報告でもしようかと思ったので…そうします。



大学院試験は合格しまして、来年度からは教育学研究科に進学することが決まりました。

……数学から教育学へと、割と大きな転向をすることになりますね。


お察しの方も多いでしょうが、将来は数学教師を目指しています。

ただ、この冬学期に数学科の講義だけを取っていては時間が余ることもあって、物理学、化学etcの講義を受けています。将来的には理科の教員免許も取ろうかなどと考えている次第です。


そんなこんなで、この冬学期は結構受けている講義数が多いです。

と言っても一年の頃よりは少ないですが。


あと、バイトのシフトも少し変わりました。今までは週一でのんびりとしていたのですが、これからは週二で少しだけ忙しくなりそうです。

まぁ、大した変化でもないですか…。


とりあえず、そんな感じで、それなりに順風満帆です。

また時折ブログの方も手をつけていきますので、今後ともよろしくお願いします。