なぜ物事は一般化されるのか。
その答えは簡単で、一般化された事実の方が、多くの物事を説明するのに使えるからである。
例えば、「体調が悪いなら休んだ方が良い」と言うのは「風邪なら休んだ方が良い」とか「頭痛がするなら休んだ方が良い」とかを全部ひっくるめてくれる。
一般化された事実ほど、説明に用いやすく、議論に使いやすく、論じるに値することが多いのではなかろうか。
物事を一般化するのは、どの学問分野においても成される。様々な諸理論がある学問分野においては、それを統合しようとするのに非常に苦労しているといった話を聞いたこともある。
この「一般化」と言うベクトルは、人の思考には自然に備わっているものだとも思う。
さて。どうしてこんなことをブログで書こうと思ったのか……。それをたどろうと思う。そしてむしろ、こちらが本題である。
発端は、私が声帯を傷めたところにある。
これをブログにしようかと最初は考えた。
赤い色の痰を吐いただとか、酷い時は咳が止まらなくなって呼吸さえ覚束なくなるだとか、あれこれブログに書くことを考えているなかで、はたと気づいた。
どうして私は不幸自慢をしようとしているのだろうか、と。
そして、話はここから複雑になる。
思えば、病院では様々な患者が自分の不幸自慢をするではないか。
あるいは、酒を友人と飲みに行った日にも、不幸自慢をするヤツはよく見かける。
なぜ人は不幸自慢をするのだろうか。
私は考えた。
人が不幸自慢をするのは、自分が不幸であることを伝えることで他の人間に安心を与えるからではないか?
……いや、もしそうだとすると、相手の不幸自慢に自分の不幸自慢を重ねるのはどういったメカニズムだろうか?
いや、そもそも相手に安心感を与えるためではなく、自分が相手から哀れに思われる方が得をする可能性が高いからではないか?
そうか、きっとそうに違いない。人はどこまで行っても利他的にはなれないものだから。
「利己」と言う性質を人の本質の一つと捉える私は、ここで一旦納得できた。
しかしである。
すぐに疑問は思い浮かぶものである。
そもそも私が利己的な人間像を持っているからそれに合致するような結論を導いたのではないか。
その可能性は大いにある。
しかし、そうだとしても、否、そうだとするのならなおさら、私には結論を変えることはできないはずだ。
だから問題ないとは言わないが、まぁ仕方はない。
そしてここでまたも私の脳裏には次の疑問が思い浮かぶ。
そもそもこの例のように、人間というもの自体が持っている性質として、自分の信じる理想に合致するようにこの世を捉えるのではないか。
だとすればなおさら仕方がないのでは。
しかし、これの是非は今すぐ確認できるものでもないか……。
さて、ここに至って私は思った。
私はなぜこうも疑問を出してばかりなのだろうか。
それの答えはおそらく、私が好奇心旺盛だからだと言うことで簡単に決着は着いたのだが、ここで私は、自分が今までに出した疑問を省みた。
どうして私は不幸自慢をしようとしているのだろうか
→なぜ人は不幸自慢をするのだろうか
私が利己的な人間像を持っているからそれに合致するような結論を導いたのではないか
→人間というもの自体が持っている性質として、自分の信じる理想に合致するようにこの世を捉えるのではないか
こうして次の疑問が浮かぶ。
どうして私は物事を一般化して考えるのだろうか……。
いや、どうしてそもそも人は物事を一般化して考えるのだろうか。
ここに来て私はようやく、元の目的を思いだした。
そうだった。ブログを書こう。
そして、今に至る。
こうしてみて、自分の思考のプロセスを見直して思うことがないではないのだが……、それを書くのはまた別の機会にとさせていただく。
「声帯を痛めてああしたこうした」のくだりは全て本当です。
ですが、私に言わせればそんなことは年に二回ほどあることなので大したものでもないのですが。