豊臣秀吉の大坂城(砂像 ^^;)を紹介した後は…
大阪狭山市にある「狭山陣屋」
『のぼうの城』は豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めた折の 支城攻防戦の話です。北条氏はこの戦いに敗れ氏政・氏照が切腹 氏直・氏規(氏康四男)が蟄居になります。 ここで北条氏が滅んだ…
ワケでは有りません
しばらくして(天正19年)秀吉に許され 氏直は下野国(1万石)に氏規は河内国(七千石)に所領を与えられました。 しかしその年の秋 氏直は30歳の若さで他界 氏規の長男 氏盛が氏直の養子になり(宗家を守り)下野国の四千石を与えられます。 その後氏盛の実父直規が他界(慶長5年)した折 氏規の所領も引き継ぎ 合計1万1千石の大名に列せられました。
その氏盛が初代河内狭山藩主となり
北条宗家の命脈を守ったのです。
その陣屋が 狭山陣屋デス!
あの北条氏の存続に想いをはせられます
狭山陣屋
上屋敷と下屋敷を構える立派な陣屋だった様ですが
現在遺構は有りません
上屋敷の馬場跡付近に 現在小公園があり
そこに 石碑と説明板があります
[ 説明板 ヨリ ]
狭山北条氏は、戦国時代の関東の雄、小田原北条氏の子孫である。
陣屋は上屋敷が狭山池北東のこの地に、下屋敷は現在の狭山遊園附近に築かれた。
現在地附近に藩主の御殿があり、南に伸びる大手筋の両側に藩士の屋敷が並んでいた。
天明六年(一七八六)の再建以後の陣屋の様子が左の絵図に描かれている。
航空写真で陣屋の位置を確認すると
旧狭山遊園辺りが下屋敷だった様ですが
現在閉園しマンション等が建っています!
資料などは少ないですが
大阪府立狭山池博物館 の中に有る
大阪狭山市立郷土資料館
に展示されています
(上が南デス)
移築遺構ですが
上屋敷大手門が堺市西本願寺別院の
西門として現存しています!
この立派な門から想像すると
小田原北条氏の意地か かなりりっぱな陣屋が想像できますが
そのプライド高さ故か大坂狭山藩の財政は逼迫していた模様です
住所:堺市堺区神明町東3-1-10
北条氏規(藩祖)
北条氏康の四男で知勇兼備の良将として知られています!
彼は北条氏にあって最初から豊臣秀吉と戦うべきではないと意見していました。 幼い頃今川家に人質に出されたり(この時徳川家康と親密になった説アリ)秀吉との交渉係を努めたりの 苦労人で世間の情勢が解っていました。
小田原城攻防戦の折には韮山城を任され 最後まで戦い 徳川家康の説得を受け開城
小田原城の最後も彼の説得も考慮されたのだとか
その功?もあってか ここ大坂の狭山に七千石の知行地を与えられました
(最終局面で戦っていたのは小田原本城 忍城 韮山城だけになりました)
遺構では有りませんが
「大阪府立狭山池博物館」
は
日本最古の潅漑池の博物館(無料)で
館中の説明ビデオには「片桐且元」が出てきます
歴史好きなら楽しめると思いますヨ!!