春の陽が降り注ぐエントランスに立ち尽くす。誰もいない。
扉の向こうに受付が見える。電気が消えているのか中は真っ暗だ。恐る恐る扉を開けると
「靴はそこで脱いで!スリッパがあるでしょ!」
と薄暗い受付の向こうからキビキビしたおばあちゃんの声がする。
エレベーターを降りた先にスリッパが並んでいたのだが、てっきり干しているのかと思っていたのだ。靴を脱ぐ場所も特になく、午後の日差しを浴びて窓辺に並べられていたのでそこで靴を履き替えるなんて思ってもみなかった。
「すみません!」といいつつ靴を履き替え恐る恐る中に入ると、暗闇でおばあちゃんがこっちを睨んでいた。なぜ電気を点けないのだろう。何かの演出なのだろうか。おばあちゃんはこっちを厳しい目で睨みつつ「初めて?どうされました!?」と食って掛かってくる。おかしな表現かもしれないがまさに食って掛かってくるのだ。「何しにきた!?えっ?何しにきたんだよ!」って感じ。これが病院の対応だろうか?
僕はもじょもじょと「ちょっと・・・指を挟んでしまって・・・」とかなんとか。「はい、じゃあそこに座って待ってて!」と長いベンチを指された。「やっぱり失敗したのか、俺。」と思いつつもう逃げ出すことも出来ないで大人しく腰を下ろす。
受付の窓の隣にカーテンがかかっている。どうやらそこが診察室らしい。待合室とそこは昔っぽい上半分が曇りガラスになったパーティションで仕切られているだけだ。その向こうでゆらゆらと人の動きが見えた。しかし何も起らず。しばらく待っていたら受付のおばあちゃんが「じゃあ中に入って!」と。見ていた限り、中でやり取りしていた気配は感じられなかったのだが。キツネにつままれたような気持ちで「失礼します。。。」とカーテンを開ける。目に飛び込んできたのは白衣を着た日野原先生のような小さなおじいちゃんだった。もう90歳近いのではないだろうか?蝋人形のようにじっと椅子に座っている。僕は絶望的な気持ちになる。「あぁ、やっぱり失敗だったな。。。。」
おじいちゃん先生はメガネの奥からじっと僕を見つめモゴモゴと籠った声で「どうした?」と聞いてくる。諦めに似た気持ちを押し殺し僕は怪我したいきさつを仕方なしに話した。ガムテープでグルグル巻になった手を見ておじいちゃんは「じゃあそれ、外して。」と言う。「僕がやってもいいけど自分でやったほうが安心でしょ。」と知らん顔してる。そりゃそうですねと言いながら僕は剥がし始めた。ガムテープを外し、布巾を剥がす。血でぐっしょりになっていた。絆創膏をきつく貼っていた指はパンパンに腫れ上がっており、これが生きてる人間の指か!っていうくらい変な紫色になっていた。それを見たおじいちゃんは、ほ~っとひとつため息をつき「あぁ~イヤだ、イヤだ。お~、、、見るのもイヤだ。」と言い出した!
解き放たれた指はさらにドクドクと脈打っている。絆創膏に血が滲む。「それも自分で取れる?自分でやったほうがいいよ。あぁ~イヤだ。」あくまでも触りたくないみたいだ。仕方が無いので僕は自分で外しにかかる。僕は左利きなので右手じゃうまく外せない。もたもたしていると先生がピンセットを差し出して「これ使う?」というのだが面倒なので無理矢理引きはがした。
ゾンビかと思ったよ。僕は指先だけゾンビになってしまった!
まるで特殊メイクのようにとんでもないことになっていた。紫色にパンパンに膨れ上がった指先。その指の2カ所に亀裂が入り、そこから肉の塊みたいなものが飛び出している。カッターなどでスパッと切れた皮膚は見たことがあるが、これはなんというか破けているのだ。言ってみれば「みかんを上からバンっと叩いたら皮が裂けて中身が飛び出した」みたいな感じ。「ソーセージを焼き過ぎて焦げ目から裂け、そこから中の肉が飛び出している」みたいな感じ。肉なのか血の塊なのかなんだかよくわからないものがムリムリムリっと飛び出してきている。先生じゃなくても「おぉ~イヤだ」って気持ちにはなる。案の定おじいちゃん先生は心底イヤそうに消毒液を漬けた綿をピンセットで摘まみ傷口をつつき回す。「あぁ~イヤだ、イヤだ。どうだい、自分でもイヤだろ?気持ち悪い。。あぁ~イヤだ。」僕はついつい笑ってしまった。「確かに気持ち悪いですね」って。
とりあえずレントゲンを撮ることに。というかこんなところにレントゲンの設備がちゃんとあることがビックリだけど。
初めてみるような大げさな機械をセットして昔の写真屋さんのような板の上に指を置き「ほい、じゃあ撮るよ。」と記念撮影のようにレントゲンを撮る。驚いたことに先生はすぐに自分の机に戻りコンピュータをいじると、いま撮った写真が画面に映し出されるではないか!えっ?おじいちゃん、コンピュータをいじれるの!?心底ビックリした。ただものではないな、このおじいちゃん!
映し出された僕の骨を見た先生は「あ~あ、すごいな、これは。」と一人でブツブツ言っている。「見てみるかい?」と写真をアップにしてくれた。初めはなんだかよくわからなかったのだがよく見ると、まあ絶望的な気分になったね。「ほら、こっちが普通の状態の指先の骨だよ。それでこっちが、、、、なっ(笑)」何故か先生は嬉しそう。指先の骨はウチワのように丸く広がっているのだが、写真に写る僕の指先は丸いお煎餅を「ダンッ!」っと上から叩き割ったように5つか6つに割れていた。バラバラになっていたのだ。ちょっと感心してしまった。昨日眠れずにうんうん唸りながら「自分のカラダなんだから意識を集中すればこの指の状態がわかるはずだ!」とミクロの決死圏のように深く深く自分のカラダに潜り込んで見てきた状態そのものだったのだ。たぶん骨がいくつかに割れているんだろうなぁと自分では検討がついていたんだな。まあそれを目の前にまざまざと見せられるのもあまり気持ちのいいものではないが、好奇心のほうがまさっていて「ちょっと写真に撮ってもいい?」と聞いて見た。「おぉ、いいよ。ほらもう少し大きくしてやろう。こっちの指も入れたほうがわかりやすいだろ。そうそう。」と僕のスマホを見ながらトリミングの指定までしてくるおじいちゃん。
正面からと真横からのレントゲン写真を撮りおえた僕は「これって手術とかになるの?」ともうすっかり孫になったように馴れ馴れしい。「指先の骨はもうどうすることも出来ないから自然にくっつくのを待つしかないな。傷口もこれじゃあ縫うわけにもいかないからなぁ。刃物で切った傷なら縫えるけどこの状態じゃどうすることも出来ないよ。」との診察だった。あぁ、手術しないなら良かった!ほっといて治るのが一番だ。時間はいくらでもある。
おじいちゃんはブリキの箱みたいなものに変な色の液体を入れ、「しばらくこの中に指を入れておきなさい。10分くらいかな。」とモゴモゴ言う。「これはちょっと特別な薬だからな。」と得意そうに。僕は液体の中でしっかりと薬が浸透するように指をピコピコ動かしながら「これはどのくらいで治るのかなぁ」と聞いてみた。「う~ん、まあひと月はかかるだろうなぁ」との返事。それで治るのなら問題無しだ!
そのあと薬を塗って丁寧にガーゼを巻いてから包帯をしてくれた。意外なことにおぼつかないんじゃないかと思っていたおじいちゃんの手元は職人のように無駄な動きがなくしっかりとしていたのだ。すごいぞ、先生!僕はこの病院が好きになってしまった。
結局僕が診察を受けて治療しているあいだにひとりも他の患者さんは来ていない。それもまたいいぞ!
外科で検索してこの病院を見つけたのだが試しに聞いてみた。「今、他の病院で血圧の薬をもらっているんだけど、先生のところでその薬の処方箋とか出してくれたりする?今行ってる病院は新大久保にあってちょっと遠いんですよねぇ」と。先生は「おぉ、薬の名前さえわかれば出してあげるよ~」とあっさりとOKしてくれた。よし、これで先生が僕の主治医だ!先生が死ぬまで僕はここに通い続けるよ!
結局僕はしばらくの間その病院に通い続けることになるのだが、てっきり夫婦だと思っていたおじいちゃん先生と受付のおばあちゃんは他人だった。なぜわかったのかというと次に行った時にはまた違うおばあちゃんが受付に座っていたからね。そしてこのおばあちゃんもぶっきらぼう。病院の中では誰も笑わないのだ。何度か通っているとそれなりにお客さんも来ていた。初めて行ったときのあの午後のまったりとした静寂のひとときが白昼夢だったように。
傷口はひと月ほどでほとんど塞がれたのだが、あれから半年経つが指先の骨はきちんと付いているのかいないのか。いまだにピリピリとしたしびれが残っているがまあそれも仕方ないだろう。先生は僕の傷の治りを見て「さすが若いと治りが早いねぇ。」と感心していた。まあ先生に比べたらそりゃまだまだ小僧かもしれないが、僕はもう50も半ばなんだけど。。
そうして今も2ヶ月に一度は血圧の薬をもらいに通っている。まだ先生も生きている。
それが今年の春の出来事だった。
そしてこのあいだの台風の日。僕の家は半地下が駐車場になっていて大雨が降ったりすると水が溜まってしまうことがあった。1メートル四方の排水溝があるのだがどうやらそこに溜まった水を汲み上げるモーターが故障していたらしく水の逃げ場がなかったことが原因だった。3年ほど前にそのモーターは直したのだが今度の台風でまた駐車場が水浸しになったら困ると思い様子を見に行った。
雨が一番酷いときだったので家族には「やめなよ、こんな時に出て行くの。そういう人が川に流されちゃったりするんだよ!」と止められたのだが駐車場に降りるだけだ。バカなこと言うんじゃないよと外に出た。
案の定、駐車場はちょっと水が出ていた。排水溝は鉄板2枚で蓋がされているのだがそのすぐ横のコンクリの亀裂から水がぴょろぴょろと吹き出していたのだ。鉄板を開けてみると水はそれほど溜まってはいない。モーターは正常に作動しているようだ。しかし地面から吹き出した水は鉄板のすぐ横であるにも関わらずぴっちり閉ざされているため排水溝には流れていかないようだった。地面の水が流れ込む場所は反対側にあるせいだ。吹き出した水は少しずつ駐車場に広がっている。そうだ、この鉄板を少しずらしてこの水がそのまま排水溝に流れ込むようにしてあげればいい。一枚20キロ近くある鉄板をずらす。ちょっと開け過ぎたか?もしかしたらここにつまずいて転んでしまう人がいるかもしれない。もうちょっとだけ隙間を小さくしようか。と端っこを持った瞬間「ガバーン!!!」と鉄板が元の位置に落ちた!一瞬の出来事だった。サッ!と手を引いたが指先に激痛が走る。挟まれた!これはこれは。知ってる痛みだ。よ~く知ってるよ!前回は左手の中指だったが今回はそのお隣の薬指。あぁ、順番に指が潰されていく。。。
半年前と同じように僕は指を咥えてフラフラと家の中へ。戻ってきた僕を娘が「どうだった~?」と呑気に出迎える。あの時のSさんと同じで僕を見たとたんさっと顔色を変える。「どしたの!」どうやら僕の顔色は真っ白で汗がダラダラと流れていたらしい。
「だから言ったのに!」「病院行く?」「まったくも~何してるの?」「絶対こうなると思った!」奥さんと娘からやいのやいのと責められながらそれでも僕は冷静だった。すでにカラダの中に入り込んで傷の具合をちゃんと判断していたんだ。この痛みなら骨が折れていても一カ所だな。うまくすればヒビが入ったくらいかもしれない。幸いにもまた指先だからほっとけばいいし。
「大丈夫、大丈夫。冷やせばいいよ。こんなんで病院行ったら台風での怪我人としてカウントされちゃうよ。世田谷区の50代の男性が・・・って。指先だから病院に行ってもどうすることも出来ないしね。それほど酷くないから大丈夫。」と、つけてくれた扇風機の前で汗を流しながら照れ笑いすることしか出来なかった。
次の日には薬指がマッチ棒のように紫に膨れ上がったがもう慣れたものだ。やはり経験というのは大切なことでした。3月のことがなかったらきっと僕は指がどうなってしまうのか不安になっていたことだろう。もしかしたら病院に駆け込んでいたかもしれない。そうしてじわじわと広がる台風被害で右往左往の病院に迷惑をかけていたかもしれないのだ。
ちなみに指はもう腫れもひいて色も戻り痛みもずいぶんと良くなった。ややもすると今回怪我したのが中指なのか薬指なのかがわからなくなる時もあるくらい。指先使うとどっちもちょっと痛いからね。まあ、先生が言っていた「もうこの歳になれば完全に治るということはないと思っていればいいよ。」ということなんだろうな。50年も乗り続けていれば部品だって製造中止で取り替えられなくなるんだからね。でもなぁ、この広がったままの指先はちょっと美しくないんだよなぁ。
無駄な経験など無い。そんなこんなの台風騒動だった。