inukumapadaのブログ

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小さなしあわせの童話です

 坂道の多い小さな街の路地裏に、こねこのルタが住んでいました。
 ルタは胸のなかに伝えたい気持ちがたくさんあるのに、どうしても上手な声が出せません。嬉しいときも、悲しいときも、声をだそうとすると喉がキュッと縮んでしまい、漏れるのはかすかな吐息だけ。

 「ルタは何を考えているか分からないね」
 ほかの野良猫たちが楽しそうにおしゃべりしながら魚をもらっているときも、ルタは遠くの屋根の上から、ただじっとみんなを見つめることしかできませんでした。伝えられないもどかしさと孤独で、ルタの心はいつも冷たく縮こまっていました。

 ルタには、ひとつだけ特別な力がありました。耳がとても良いため、街にあふれる「音」が、すべて色や形を持って見えたのです。

 朝の牛乳配達の自転車が鳴らす「チリンチリン」は、眩しい黄色い光の輪。
 夕方、パン屋さんから漂う香ばしい匂いと「焼き上がりました」の鐘の音は、ふんわりとしたあたたかいオレンジ色。
 雨がトタン屋根を叩く「ポタポタ、ザザザ」は、深く澄んだ青いしずく。

 ある大雨の日、雨宿りのために忍び込んだ古い絵画教室の物置きで、ルタは捨てられていた木枠のキャンバスと、乾きかけた絵の具のチューブを見つけます。
 外では激しい雨と風が街を包んでいました。ルタの耳に届く音の波に合わせて、胸の中の感情が一気にあふれ出します。ルタは夢中で前足の肉球に青や白の絵の具を直接つけ、真っ白なキャンバスへ飛び付きました。

 ルタは言葉の代わりに、肉球とヒゲをいっぱいに使って絵の具を滑らせました。

 雨の音の重なりに合わせて、濃い青を何度も叩きつけるようにのせる。風の「ヒュウ」という音に合わせて、白い絵の具をしなやかな爪先で大きく流す。そして、雲の隙間から差し込んだ一筋の光の音「キラキラ」を感じた瞬間、鮮やかな黄色を中央にドスンと押し当てました。

 描き終えたとき、キャンバスには「雨の日の音そのもの」がダイレクトに立ち現れていました。ルタはハッと息を呑みます。自分の胸の中にあったモヤモヤや寂しさが、絵の具の色彩となって鮮やかに世界へ飛び出していたのです。

 次の日、ルタは完成した大きなキャンバスを、勇気を振り絞って空き地の真ん中に立てかけました。

 通りかかった野良猫や街の人々が、足を止めます。
 「……なに、この絵」



 一匹の猫がぽつりと呟きました。
 「この深い青のところ……昨日の激しい雨の音が聞こえてくるみたいだ」
 「見て、この真ん中の黄色。雨がやんで、おひさまが出てきたときのあのホッとした気持ちになる……」

 仕立て屋のおじいさんがメガネの位置を直し、深く息を呑みました。
 「すごいな。言葉なんてひとつもないのに、まるで街の音が音楽になって流れてくるようだ。この子は、私たちが聞き逃していた街の美しさを、全部知っていたんだね」

 言葉ではどうしても伝えられなかったルタの「世界への愛おしさ」が、キャンバスに踊る色彩を通して、ダイレクトにみんなの心へ流れ込んでいきました。誰もが感動に胸を打たれ、静まり返っています。

 ルタはハッと気づきました。自分には、言葉よりもずっと深くてあたたかい方法で人の心を震わせる「絵を描く手」があるのだと。悲しさと孤独でいっぱいだった胸に、誇らしさと、溢れんばかりの小さな幸せが満ちていきました。

 「ルタ、私の声はどんな色をしているの?」
 一匹の野良猫が歩み寄ってきました。

 ルタは声を出さず、代わりに絵の具のついた前足を伸ばし、新しいキャンバスにそっと桜色の丸を描きました。それを見た野良猫は、嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らしました。

 相変わらず上手におしゃべりはできません。けれど、ルタはもう寂しくありませんでした。
 キャンバスと絵の具を抱え、自分だけの特別な「声」を胸に、ルタは力強く屋根の上を駆け上がっていきました。

(おしまい)