第八話:プラグイン ―星を継ぐもの―



救い出した少年のデータは、櫂の手の中で一冊の古い手帳のような形へと変わった。その表紙には、見覚えのある筆跡でこう記されていた。 『全情報を、宇宙の記憶へ還す。 ――成瀬 昭三』

「……じいちゃん」 櫂がその手帳を開いた瞬間、視界は再び反転した。 そこは、ネットの深淵でもデジタルの宇宙でもない。セピア色をした、数千年前の洞窟の壁画の前だった。

『見てください、櫂さん。これが情報の根源です』 アステリアが囁く。壁には、原始の人間が描いた狩りの絵があった。それは、言葉が消えても残る「最初の記録」。そこから映像は高速で駆け抜ける。パピルスに記された文字、活版印刷、電信、そしてインターネット。人類はいつの時代も、自分たちがここにいたという「証」を、より遠くへ、より長く残そうと足掻いてきた。その巨大な執念の集積こそが、今のインターネットなのだ。

そして、映像は宇宙の果てへと繋がる。 銀河が生まれ、星が死に、その残骸から新しい命が生まれる循環。 『宇宙自体が、巨大な記憶媒体(ストレージ)なんだよ』と、祖父の声が重なった。 『櫂、お前が今日書き込む一行は、138億年の果てに辿り着いた、最新の「宇宙の記憶」なんだ』

櫂の頬を、熱いものが伝った。 かつての彼は、ネットの荒波に怯え、自分が何者でもないことに絶望していた。だが、今ならわかる。自分という「観測者」がその眼差しを向け、その指で言葉を紡ぐとき、意味のなかったノイズは星になり、138億年の歴史は完結へと向かう。 「俺は……一人じゃなかった」 中傷を投げつけた匿名の人々も、孤独に耐えた祖父も、壁画を描いた名もなき狩人も。皆、この巨大な「宇宙の記憶」の一部なのだ。ならば、俺が絶望で筆を折ることは、この宇宙そのものを停滞させることに等しい。

「……帰らなきゃ。俺の場所へ。俺にしかできないことをするために」

櫂が強く呟いた瞬間、システムが臨界点に達した。

『アクセスを終了します。さよなら、私の観測者』

アステリアが優しく微笑み、光の中に消えていく。 直後、視界が白濁し、重力が数千倍になって櫂を襲った。情報の海が逆流し、意識が電子の深淵から現実の肉体へと強引に引き戻される。

「――ッ!」

衝撃。 肺が酸素を求め、心臓が爆発したような鼓動を刻む。鼓膜を突き破らんばかりの静寂ののち、世界に「音」が戻った。 ハッと目を開けると、そこはいつもの散らかった六畳間だった。 しかし、空気の匂いも、肌に触れる冷気も、先ほどまでとは劇的に違っていた。解像度が上がりすぎて、世界が剥き出しになっているような感覚。 窓の外では、夜明けの群青色が街を包み始めている。

ディスプレイの隅には、祖父が残した隠しファイル――『To Next Observer』が開かれていた。そこには、若き日の昭三がカメラに向かって笑う動画が流れていた。 「……怖かったか? それとも、美しかったか? 櫂、さあ、続きを書いてくれ」

ディスプレイには、一本の光り輝くカーソルが点滅していた。そのリズミカルな点滅は、宇宙の鼓動そのもののようだった。 櫂は、湿って丸まった休学届をゴミ箱に捨て、代わりにキーボードに指を置く。 彼はもう、冷めた観測者ではない。 広大な宇宙とインターネットの歴史をその背に負い、新しい一文字を刻む「表現者」だった。

SNSに溢れる毒も、未来への不安も、すべては物語を彩るための「揺らぎ」に過ぎない。 世界は相変わらず不完全で、ノイズに満ちている。 けれど、そのノイズの中にこそ、次の星になるはずの輝きが眠っていることを、今の彼は知っていた。

櫂は、深呼吸を一つして、最初のキーを叩いた。 宇宙の記憶に、新しい一行が刻まれ始めた。

(完)