中学受験ネタとは全く関係ない話です。ウィトゲンシュタインの哲学探究を読みました。
ウィトゲンシュタインと言えば、
「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」が有名ですが、私はその論理哲学論考よりも、後期の哲学探究の方が好きです。
言葉とは厳密に定義されるものではなく、文脈や生活の中で意味が決まってくる。いうなれば言語ゲームというルールの中で、相手の腹の中の探り合いをしてその時々で文の意味を感じ取るようなもの。
という話の中で、「聲の形」をふと思い出しました。
聲の形、何度かここのブログでも紹介をしていますがすごくいい作品なんですが、イマイチその良さを言語化できていないなぁと思っていました。
それがウィトゲンシュタインの言語ゲームという文脈の中でもしかしたら上手く説明できるかも、と思ったのでとりあえず書き始めてみました。結論まで着地できるかどうか、は分かりません(無責任)。
初めて聲の形をアニメ映画で見た時の率直な感想は、単純に
西宮さんかわいい。植野、なんだあいつは(# ゚Д゚)
という単純なものでした。
が、何となくモヤモヤする。
その後、何度か(何度も)映画を観て、原作漫画を全巻購入し周回していくうちに、印象が180°転回しました。
西宮よりも植野の方に、ひたむきさを感じる。
その部分を何となく感じてから、聲の形という作品が本当に素晴らしい作品だと思うようになったのです。
どういうことか。
そこで出てくるのが言語ゲーム。小学生のときの硝子は筆談ノートを使って周囲とコミュニケーションを取ろうとしています。が、表情は「気持ち悪い笑い」を浮かべてる。声のトーンも分からず、表情も読めず、筆談ノートである意味で無機質な文字でのコミュニケーション。これって周囲と言語ゲームの土俵には上がらないというかなり強い意志を感じます。
いやそれ、耳が聞こえないんだからしょうがなくね?っていう声が聞こえそうなので、成長した後の植野との観覧車のシーンが来るわけです。
観覧車で植野が西宮さんに話しかけます。が、その回答は「私は私が嫌いです」これって完全にコミュニケーションを拒否ってますよね。
全く同じ意図であろう描写が、将也から見た時の他人の顔に付いている✕印。
この二人が写し鏡であるという論考は色んなところで見ますが、まさにそういうところが写し鏡なわけですね。
一方、硝子と将也。将也→硝子は✕印がついていません。が、硝子は将也に対してもコミュニケーションをあまり積極的には取っていません。「ウキ!」のシーンくらい。でも通じなくてまた閉じこもります。硝子にとっては髪の毛をアップにしてる時はオープンコミュニケーションできる時、それ以外はクローズしている時。
この徹底的な言語ゲームの成り立たない状況をギリギリ最後まで描き続けています。
これが後半のあのシーンを境に変わります。硝子がオープンコミュニケーションするようになるのです。
あのとき、将也と硝子の役割も入れ替わって、硝子が将也を引っ張る存在になります。少し前のデートのシーンと、入れ替わり後の文化祭のシーンの対比てすね。
そういえば、話を少し戻りますが、小学生時代の硝子に対して、かなり無理やりてすが言語ゲームの世界に引き釣り込んだ子が将也でした。
雲梯?のシーンで、「お前さ、もっと上手くやらないとうざがられちゃうんじゃないの」と硝子に注意をしてるのは将也です。彼は硝子が言語ゲームの世界に入り込んでこないことによって、硝子が今後直面する困難を予見して注意をしてます。教室で殴り合いをしたりのも将也でした。
ちなみにあのシーンの後、病院で硝子をボコボコにするという同じ形で言語ゲームに引き釣り込んだのは、やはり植野でしたね。
着地地点が全く見えなくなってきました。
要はウィトゲンシュタインの言語ゲームというレンズを通して見た時、硝子(イジメ被害者)と植野や将也、という対比がある意味で逆転して見えてきたということです。
言語ゲームの土俵に乗らないコミュニケーションしかしようとしなかったのが硝子である、という。
そこを含めて見た時、硝子を言語ゲームに引き込もうとした存在=将也(手話も覚えてきたし)という存在が「ウキっ!」の対象になることも理解できる気がします。
とはいえ、硝子がかわいいなぁ、と思うのは別の話です(笑)。