戦艦大和においては今でも熱烈なファンがいる一方、世界の三大無用の長物(万里の長城、ピラミッド、戦艦大和)に位置されてもいます。大和を知りたかったら大和ミュージアムと言う大和の博物館が広島県呉市にあります。大和の誕生は第二次世界大戦開戦前から米との軍拡競争で日本の威信を賭け極秘裏に製造を行われたものです。そして、それは米開戦直前に完成されました。戦艦大和の初陣は前回、山本五十六長官の記事②で述べました。ミッドウェイ海戦で一発も爆撃を行えず、性能を生かす適切な場所、使途が無かった。

 

 

広島県呉市「大和ミュージアム」

 

 

 

 

次第に大和はクーラーが利いており快適で「大和ホテル」と揶揄されるようになった。しかし、大和の乗組員は「軍人精神注入棒」なるもので毎日、殴られ制裁を受ける事が日課となっていた。そんな大和に次の出番が訪れた。アメリカは日本の東南アジア、フィリピン、インドネシア等の石油資源を断つ作戦に出て日本の戦争継続不可に出た。レイテ沖海戦である。それに対し日本は捷1号作戦を発動。一撃を与え講和に持ち込む腹だった。アメリカはミッドウェイで形勢を自国優位に持ち込みこれから日本を叩き潰そうと言う中、随分、目出度く甘い考え方である。その作戦と言うのは小沢艦隊がオトリとなり米軍を引き付けた間(隙)に栗田大和艦隊がレイテ湾を攻め落とすと言うものである。この海戦での栗田大和艦隊がとった「謎の行動」は有名で今でも語り継がれていますね。

 

 

 

 

 

 

小沢治三郎中尉率いるオトリ艦隊・空母6隻、重巡洋艦3隻、駆逐艦8隻、艦上機108機。栗田健男中尉率いる大和艦隊・戦艦7隻、重巡洋艦13隻、駆逐艦19隻。日本はこの海戦に命運を賭けた。しかし、又も米・航空機40機により1942.10.24、大和型二番艦の「武蔵」撃沈。栗田大和艦隊は一時退避。その後、小沢オトリ艦隊が「最後の一発まで撃って撃って撃ちまくれ」と食い下がり善戦。オトリの任務を全うした小沢治三郎中尉、、これが大和魂と言うものではないであろうか。米軍オトリ艦隊に引き付け米軍艦隊を打破。「今がチャンス」、小沢中尉は大和艦隊・栗田中尉にマッカサー率いるレイテ湾攻撃を打信した。しかし、栗田大和艦隊は反転(Uターン)して行ってしまったのである。「バカヤロウーーー!!!」。小沢艦隊の犠牲で栗田大和艦隊はレイテ湾を攻撃出来たのに作戦を実行出来ずに終った。事実上、日本海軍は壊滅した。

 

 

小沢治三郎中尉

 

 

 

栗田健男中尉

 

 

真意も真相も分かりはしない。しかし、真珠湾攻撃の南雲忠一氏、レイテ沖海戦での栗田健男中尉。このような人に巻き込まれ失墜・失脚するケースは現代でも計り知れない。

 

 

 

 

豊田副武連合艦隊司令長官

 

 

山本五十六連合艦隊司令長官の後を継いだ豊田副武長官。沖縄が落ちれば本土が危ないと、S20.4天一号作戦を発動。これは水上特攻作戦で、戦艦大和と陸上に乗り上げ陸上砲台(大砲)として戦う。「バカヤロウーーー!!!」、大和はプラモデルか!!!。しかも、航空隊の援護無し。完全な自滅の道である。この非情作戦に海軍良識派で通っている伊藤整一中尉(部下6000人を預かる)がみすみす死ぬと分かっている作戦に異を唱えた。伊藤中尉に続き出撃部隊の各艦長から、「大和の能力を超えた愚挙」、「航空兵力の決定的な劣勢」と続いた。しかも、豊田副武長官は日吉の防空壕に一人、こもっている。自ら一線に赴いた山本五十六長官とは雲泥の差だ。誰もこのような人の為に死にたいとは思わないであろう。海軍上層部は伊藤整一中尉の元に三上作夫中尉を送り説得に当たらせた。開口一番、伊藤整一中尉は三上作夫中尉に「作戦の範囲と成功度をどう思うか」と問う。三上作夫中尉はこの問いに対し「死にに行けと言うものなのです」と応える(真意ではないであろう)。伊藤整一中尉は「それが聞きたかった」と一言。各艦長に「我々は死に場所を与えられた」と訓示した。これが大和魂か、涙するドラマだ。

 

 

 

 

伊藤整一中尉

 

三上法夫中尉

 

 

S20.4.6、上陸作戦部隊18万3千人、艦船約1500隻、艦上機1700機。海は戦艦で真っ黒になった。大和、最後の出撃、乗組員3000人での沖縄に向かう航海となった。米軍は既に空の戦いに切り替えている。米敵機300~350機余り。その日は雲が全域にかかっていた。米機は雲の上に身を隠し、そこから爆弾、魚雷の嵐の様な投下攻撃。完全に蜂の巣である。伊藤整一中尉は特攻作戦を中止し駆逐艦で海上に漂流している1700人を救った。大和は片側に魚雷等で爆撃を受けても艦体底左右に海水を入れたり排水する事で沈没せず水平を保つ。米軍は考えている。魚雷攻撃を艦体の左舷に集中させた。バルブが水圧で人間の力では回せない。傾斜20度で復元不能、傾斜35度で大和は転覆。火薬庫に引火し大爆発、東緯4分0秒、北緯30度43分17秒地点で最期を遂げた。

 

 

 

 

 

「大和沈没」。ここに日本海軍終結と共に日本の武士道は終焉に向かったのかも知れない。

 

 

大和沈没地点

 

 

戦艦大和が残した物とは。松本零士氏の「宇宙戦艦ヤマト」に影響を受けた人は多いであろう 笑)。技術、物作りに対する姿勢。大和の技術が戦後に成長して行く日本を救った。物の性能だけでは無く、使途の吟味、考慮。最後まで後に引かない日本人の心意気・プライド。色々、考えられるが現代においては自滅に向かう危ない考え方でもある。

 

 

 

 

私の場合は完全に「ゼロ戦」派であるが、「戦艦大和は」良い意味でも悪い意味でも、まさに日本の太平洋戦争における象徴と言えるかも知れない。