難波潟 短き蘆の ふしの間も
逢はでこの世を 過ぐしてよとや
百人一首19番にある伊勢(いせ)の歌です。
この歌は、「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」でもご紹介させていただいたのですが、「ねずさんの百人一首塾」でも、拙著からも離れてみなさまと学ばせていただきました。
そこであらためて感じたこと。
伊勢、すごい!!素晴らしい!!
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仲平は、父の薦めに従って、伊勢ではなく、別な女性と結婚してしまいます。
伊勢は、心から仲平を愛していたし、その愛に一寸の疑いも持っていなかったのであろうと思います。
ところが、仲平は、自分を捨てて別な女性と結婚してしまったのです。
ショックだったと思います。
仲平は、やむを得ない事情があることなどを、きっと伊勢に告げたことでしょう。
そのときに、伊勢が詠んだ歌が、冒頭の歌です。
そしてこの冒頭の歌には、伊勢集に、詞書が付されています。
そこにはこう書かれています。
「秋の頃うたて人の物言ひけるに」
「うたて」というのは、嫌な奴とか、大嫌いな奴、気味の悪い奴、不愉快な奴といった意味の言葉です。
伊勢は、仲平のことを、嫌な奴だと言っているのです。
ところがその詞書に続く歌は、
難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや
(あなたは私に、ほんの一瞬たりとも逢わずに
この世を過ごせとおっしゃるのですか?)
なのです。
***
傷心の伊勢は、その頃父が大和に国司として赴任していたので、都を捨てて、その父のもとへと去ります。
その大和で伊勢が詠んだ歌があります。
忘れなむ世にもこしぢの帰山
いつはた人に逢はむとすらむ
(もう忘れてしまおう。この世の峠の帰山を越えたのだから。
あの人は、いつまた私に逢ってくれるというの。)
出世なんかいらない。
政治なんかどうだっていい。
ただ、愛を信じていたかった。
でも、もう忘れてしまおう。
あの人とのことは、もう峠を越えたのだから。
そんな伊勢の悲しい気持ちが伝わってくる歌です。
そんな伊勢のもとに、1年ほど経ったある日、中宮温子から、「再び都に戻って出仕するように」とお声がかかります。
***
ある日のこと宇多天皇が伊勢に、伊勢の家で見事に咲いていると評判の女郎花(をみなえし)の献上を命じたのです。
それを知った仲平が、伊勢に歌を贈りました。
このときの仲平は朝廷の中枢にいる権力者です。
その権力者に、伊勢は歌を返しました。
をみなへし折りも折らずもいにしへを
さらにかくべきものならなくに
(女郎花は折っても折らなくても、
昔のことを思い出させる花ではありません。
私は今更あなたのことを心にかけてなどいないし、
これを機会に昔を懐かしむこともありません。)
伊勢は、きっぱりと、もう会わないと左大臣仲平に伝えています。
もう逢わないって決めたのです。
二人は、別々の人生を歩くことにしたのです。
たとえ、あなたがどんなに出世したのだとしても、私はあなたとはもう逢わない。
懐かしむこともない。
歌は、そのように詠まれています。
***
さて、その後の伊勢の人生です。
やがて伊勢は宇多天皇の寵を得ることとなり、皇子の行明親王を産み、伊勢の御息所と呼ばれるようになります。
ところが皇子は五歳(八歳とする説あり)で夭折してしまう。
そして宇多天皇は譲位され、落飾して出家され、お世話になった中宮温子も薨去してしまいます。
憂いに沈む伊勢は、この頃30歳を過ぎていたけれど、宇多院(もとの宇多天皇)の第四皇子である敦慶親王(25歳)から求婚され、結ばれて女児・中務(なかつかさ)を生んでいます。
そして中務は、立派な女流歌人として、生涯をまっとうしました。
***
伊勢は、関白藤原基経、左大臣仲平といった政治権力の世界から、仲平との別れを経て、祈りの世界の住人である宇多天皇やその子の敦慶親王と結ばれて子をなしています。
***
「うたて人の物言ひけるに」とタイトルを付けながら、
「ほんのわずかな時間も、あなたと逢わないでこの世を過ごしなさいとおっしゃるのですか?」と問いかけた伊勢。
その伊勢の歌のもつ凄みは、ついに権力と祈りの世界までをも描き出しています。
いやあ伊勢って、ほんとうにすごいです。