日本人は、怖いことは子どもに話さないから

真実がどんどん消されていきます。

これから戦争にまきこまれないために、この時代に起こった戦争前夜の出来事を、たくさんの方に共有していただきたいです。

それは、きっと平和への道につながると信じます。


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通州事件に至るまでのまとめクリップ。
最近、電車のトラブルが相次いでいますから、とても心配です。
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僧侶が惨殺。
チベットでは現在進行形です。
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新聞にある通州事件という恐ろしい殺戮がありました。
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蒋介石が撮った写真。
南京事件として、日本軍がしたこととしてすり替えられています💦
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そして蒋介石の妻である宋美齢と、その宋美齢が尊敬し敬愛してていた実兄の宋子文も同様に拉致し、そして蒋介石との間で、8項目にわたる合意を取り付けます。

【西安事件による八項目合意事項】
1 南京政府の改組、諸党派共同の救国
2 内戦の停止
3 抗日七君子の釈放
4 政治犯の釈放
5 民衆愛国運動の解禁
6 人民の政治的自由の保証
7 孫文遺嘱の遵守
8 救国会議の即時開催

要するに、この拉致事件によって、蒋介石は表向きは従来通り共産主義との対立路線でいながら、水面下で毛沢東の共産党と手を握ったのです。

ちなみに、共産党嫌いだった蒋介石が、なぜ、突然、共産党と仲良くすることにしたのかについて、当時のある記録によると、張学良に襲撃された時、蒋介石は入れ歯を落としたというのです。
捕まったとき、慌てて逃げたため、入れ歯が落ち、逮捕先で入れ歯がないので、会話もろくにできず、飯も食えない。
そこで蒋介石は、自宅にある換えの入れ歯を要求し、妻の宋美齢がそれを持ってきた、というのです。

蒋介石の旺盛な食欲を満たすために、西安事件で蒋介石は支那共産党に寝返り、それまでの日本贔屓を一転させ、自軍の中に共産党員を多数潜り込ませ、それによって日本人や日本軍を襲撃させた。
だとすれば、蒋介石の寝返りによって殺された多数の人々は、蒋介石の入れ歯の身代わりに殺されたことになります。
これがウシハク支那という国の恐ろしさです。

この西安事件による「国共合作」によって、蒋介石率いる国民党は、「安内攘外」、つまり「まず国内の共産党を駆逐して国内を統一し、それから外国を打ち払う」という方針を捨てて、国民党自体が共産党の手先となりました。
そんなことを当時の日本は、まったく知らずに、国民党軍の訓練の協力などをしていたのです。
酷い話です。

そして昭和12年7月7日に「盧溝橋事件」が起きました。
この事件は、北京近くの盧溝橋のあたりで実弾も持たずに演習中だった日本軍めがけて実弾が発射され、これに合わせて近くにいた国民党軍にも実弾が撃ち込まれたという事件で、普通なら、これで両軍が大衝突を起こしたところです。

実際、支那共産党は、これで日本軍と国民党軍が大衝突を起こし一気に戦乱の火ぶたが気って落されると信じ込んで、この翌日には早々に、「日本と衝突が起きた。全軍は愛国心を結集して断固日本軍に立ち向かうべし」という「俗称78通電」を公式に発しました。

ところがこの電文の内容を見ると、「最初の発砲ですぐに両軍が衝突した」と書いてあります。
実際には、発砲を受けても、日本は戦乱を回避するために、一切の反撃をしないで、じっと我慢をしていたのです。
それが、両軍が衝突した、と記述されているということは、この78電文は、事件が起きる前に、あらかじめ準備してあった計画電文だったということです。

ですからいまでも中共は、この盧溝橋事件が支那事変のきっかけだったと主張しています。
それどころか、支那事変の名前も「日中戦争」だと言いはります。
けれど、当時、支那国民党も、支那共産党も、まだ国家ではありません。
国民党は、蒋介石率いるただの軍閥のひとつだし、共産党は壊滅寸前です。
さらにいえば、この時点で、まだ「中共政府」は成立していないし、その体もなしていません。
そして、戦争とは、国家と国家が行うものです。
ということは、「戦争」ではなく、これは「事変」と呼ぶべきもので、冷静にみて「日中戦争」とは「おこがましい」と申し上げたいと思います。

しかも日本は、盧溝橋にいた国民党軍と交渉を重ね、7月11日には現地の国民党軍司令官の宋哲元との間で現地停戦協定を結んでいます。
この現地停戦協定は、「松井・秦徳純停戦協定」と呼ばれるもので、その内容は、

1 国民党軍が日本軍に遺憾の意を表して責任者を処分すること
2 将来このような事件が再発しなようにすることを声明すること。
3 国民党軍が盧溝橋城郭付近から撤収すること
4 抗日団体を取締ること

等々、その内容は、全面的に国民党側が非を認め、現地から撤収するという内容になっています。
要するに支那共産党の意に反して、7月11日には、現地で事件がまるく解決してしまったのです。

そうなると困るのは、支那共産党です。
共産党の予定では、盧溝橋事件で日本対国民党軍閥のドンパチがはじまっていなければならないのです。
それがスターリンのコミンテルンからの命令です。
スターリンは、「日本と国民党軍を衝突させろ!」といっているのです。
これは厳命です。
逆らえば、毛沢東の命はありません。

そこで、なんとかして日本と支那共産党を激突させるためにと仕掛けたのが、7月25日の廊坊事件であり、26日の広安門事件でした。

7月11日の停戦から、25日の廊坊事件まで、まる2週間が空いていますが、これは支那共産党に、新たな作戦のための準備期間が必要だったこと、コミンテルンと支那共産党とのやり取りが交されていたと見れば、辻褄があいます。

ともあれ、こうして廊坊事件、広安門事件が起こりました。
前にも述べたし、これからも何度でも述べますが、盧溝橋事件にせよ、廊坊事件にせよ、広安門事件にせよ、いわば騙し討ちで10倍する兵員で日本に対して戦闘をしかけてきた事件です。
これだけで、日本は支那と開戦するに足る十分な理由となる事件です。

実際、第一次世界対戦にしても、第二次世界大戦にしても、ほんのわずかな衝突が、世界を巻き来んだ大規模簿な戦争に発展しています。
日本には、この時点で支那に対して大規模な軍事的攻撃を仕掛け、徹底して支那を撲滅するだけの十分過ぎるくらい十分な理由となる事件だったのです。

ところがそこまでしても、日本は戦争を避けようとしました。
当時の日本陸軍の思惑も、仮想敵国は支那ではなく、むしろその背後にいるソ連でしたし、大東亜の平和と独立を回復することこそが日本の理想とするところでもあったからです。

日本は、平和を愛する国です。
支那と戦う気など毛頭ありません。
むしろ日本陸軍に限らず、日本人の誰もが願っていたのは、支那の大地に戦乱のない平和な社会の回復そのものです。
だからこそ、日本は、明らかな開戦理由となる事件が起こっても、支那の兵士たちを蹴散らしただけで、それ以上の追撃戦、掃討戦をしていません。

これでは、「日本と国民党軍の衝突」など、到底起こりません。
そこでダメ押しで起こされたのが、人類史上類例のない残虐事件である「通州事件」であったのです。
これが起きたのが7月29日です。

廊坊も、広安門も、通州も、等しく北京とその近郊です。
そして通州事件が起こる前、通州城界隈に終結したのは、廊坊や広安門で蹴散らされた支那国民党の残兵たちと、支那共産党の工作員たちでした。その数、約3000人です。

この日の午前2時、突如、支那人たちが北京郊外50キロの地点にある通州にいた日本人居留民385名を襲撃しました。
そして223名の日本人居留民が、きわめて残虐な方法で虐殺されました。
女性はほとんど強姦されて殺害されました。

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旅館の近水楼では入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。
帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。
女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。
カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。
南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた
(第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言 中村粲 『大東亜戦争への道』展転社)

 *

私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。
20名はほんの子供のような少女だった。
家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。
空中にぶらぶらされる拷問である。

共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。
そして1日中続いた。
日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。
家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。
それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。

酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。
多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。
水は彼らの血で赤く染まっていた。
何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。
中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。
古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。
この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。
しかし120人は逃げおおせた。
犯され殺された者の多くは子供であった。

この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。
中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。
目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。
アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。
(中略)
こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。
彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。
私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。
他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。」
(フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕 -日中戦争の真実-』)
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では、この通州事件のあと、日本はいったいどうしたのでしょうか。
世界中の誰がどうみても、世界史に類例のない残虐非道な事件です。
それこそ北朝鮮ではないけれど、日本は「容赦ない無慈悲かつ徹底した鉄槌を」くだしても、なんら咎められる筋合いはありません。

ところが日本がとった行動は、「それでも開戦を避ける」というものでした。
この事件のあとの会議では、日頃意見が衝突しがちな陸軍、海軍それぞれの首脳も、当時の内閣も、全会一致で、それでも戦争を避けようという意見で一致しています。

なぜでしょう。
理由は簡単です。
当時の日本の陸軍兵力は最大で25万です。
これに対して、支那国民党は210万です。
さらに南下を狙うソ連は160万の大軍を東亜攻略に準備しています。
日本が自立自尊を護り抜くには、支那とはむしろ仲良くし、本当の脅威であるソ連に備える必要があったのです。

加えて、日本がなぜ支那に軍を進出させていたかといえば、それは支那に平和をもたらすためです。
その平和をもたらす使命をもって派遣している日本の兵が、支那で報復のための戦いをする、支那を戦乱のルツボに叩き込むというのでは、話にならないからです。

日本は、日本政府の意思として、8月4日に、支那人たちにたいへん信頼が厚い元外交官で実業家の船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて蒋介石に、きわめて寛大な和平を働きかけました。
なぜ寛大かというと、通州事件という未曾有の厄災を受けていながら、日本はその加害者である支那に対して、「あながたのこれまでの日本に対する要望をすべて(すべてです)受け入れるから、争いはやめよう」と働きかけたのです。

これが「船津工作」です。
骨子は次の通りです。

(1) 塘沽(たんくう)停戦協定、梅津・何応欽(かおうきん)協定、土肥原・秦徳純協定など、
日本に有利な北支那に対する軍事協定をすべて解消する。
(2) 非武装地帯を作る。
(3) 冀東・冀東政権を解消し、南京政府の下に置く。
(4) 日本駐屯軍の兵隊は以前と同じ状況に戻す。

この4項目が何を意味するかというと、その時点で支那国民党が日本に対して希望していたすべての条件を丸呑みする、というものです。
通州事件のみならず、盧溝橋、廊坊、広安門の各事件の賠償さえ要求していません。
223名の邦人が大虐殺されるという被害に遭いながら、いっさいの賠償請求もせず、日本は、逆に支那の希望要求を、全部飲むという条件を提示したのです。

残念ながら、この協定案に蒋介石の入れ歯の替えのことは入っていませんが、この停戦案は、相手の要求を「全部飲む」というものです。
そうなれば、もはや、支那が日本を敵視し攻撃する理由など、何もなくなります。
そうなれば、当然に、支那と日本との軍事的衝突も回避され、亡くなられた方々にはお辛いかもしれないけれど、結果としてその命が、両国の平和、それ以上に、支那の未来永劫の平和な社会建設のために役立つなら、それがいちばん良い解決の道だ、日本はそう判断したのです。

そしてこの船津工作は、8月9日は、上海市内で、日本と国民党双方の代表団が集い、相互に調印を図る段取りとなりました。

ところが、その当日に、上海で大山中尉虐殺事件が起こります。
海軍の上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉(死後大尉に昇進)が、斉藤要蔵一等水兵の運転する車で移動中に、支那国民党の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて死亡したのです。

自動車のわきにあった大山中尉の遺体は、多数の機関銃弾を受けていただけでなく、ご丁寧に頭を青竜刀で割られていました。
斉藤一等水兵は運転台で多数の銃弾を受けて死んでいます。

この事件の発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になりました。
そしてこの1週間後に起きたのが、第二次上海事変です。

「かつて日本が支那を侵略した」という人がいます。
けれど、歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチで支那に軍を派遣していたのです。
それを一方的に襲い、戦乱へと導こう導こうとしたのは、日本ではありません。

 *

もう一点、冒頭の犠牲者となった者について、申し上げておきたいことがあります。
冒頭に、
邦人 104名(内、冀東政府の職員及其の関係者約80名)、
鮮人 108名(大多数は阿片密貿易者及醜業婦にして在住未登録なりし者)
と書かせていただきました。

ここに「鮮人」の阿片密貿易者及醜業婦と、「邦人」の冀東政府の職員及其の関係者という言葉が出てきます。

「冀東政府」というのは、冀東防共自治政府のことを指します。
この時期、支那に統一政権はなく、まさに自称政府が乱立する情況だったわけですが、このうち、冀東防共自治政府は、支那にはびこる共産党駆逐と、支那人の治安確保のために必要な対策を行うための政府として日本軍が支援した政府で、独自の保安隊という名称の軍を持っていました。
そしてこの「冀東政府」を支援するために、日本人が「冀東政府」の職員として、通州に居留していたわけです。

通州事件では、この保安隊が、まさに日本人を襲ったわけですが、ここが支那を考える上において大切なところで、支那では、上にどんなに立派なリーダーがいようが、その下にある軍は、いつでもどこでもどんなときでも、集団でヒステリーを起こす暴徒となる危険な傾向が常にあるということです。

ただしこのように書いたからといって支那人=凶暴などと考えることは間違いです。
どんな人の中にも、善性も悪性もあるのです。
つよい心を持って、善性に生きようとする人は、支那人の中にも多くいる。
そういうことを忘れてはならないと思います。

支那共産党は、まさにこの支那人の性質を巧妙に利用することで、一瞬にして保安隊を暴徒に換え、さらにその責任の一切を国民党に覆いかぶせるという離れ業を実現しているわけです。

一方、この通州市は、北京にほど近いことから、もともと鮮人のヤクザたちがアヘンの密造と、売春宿の経営を行っていました。
「Sさんの体験談」にもありましたが、支那共産党は工作のために、まずこの鮮人たちに「日本悪玉論」を刷り込み宣伝させました。
人間を上か下かでしか判断せず、常に上に対してヤキモチと恨みしか持とうとしない鮮人は、火をつければすぐに熱くなる性質は、工作にはたいへんに容易であったわけです。

そしてその証拠隠滅のため、通州事件では、その鮮人たち全員が男女の別なく殺害されています。
中共の手先になって反日活動に精を出せば、いずれはその中共に裏切られて、残酷に殺害されるというのは、鮮人たちがこの2千年の間繰り返してきた歴史です。
彼らもすこしは学ぶべきだと思います。

男女でいいますと、女性は何年も、それこそ何十年も昔のことをはっきりと覚えていて、たとえば夫婦喧嘩などしますと、大昔のことを持ちだされて男性は何も言えなくなってしまったりすることがあります。
この場合、たいてい、男性の側がかつて妻に迷惑をかけており、そのことを指摘されるとグウの音も出なくなる。
過去の事実というのは、変えようがないからです。

しかしだからといって、過去に目を背けてファンタジーに浸ったとしても、実は何も変わらないし、過去の事実を指摘されることに対して差別だの、差別主義者だのと罵ったところで過去の事実は変わりません。
事実を事実として直視し、過ちが二度と起きないようにすることができるのが、人間であり民族であり国家の知恵です。

日本人が大切にしている文化は、「過去は変えられないが、過去を直視することで私たちは未来を変えることができる」というものです。
これを「成長」といいます。

逆に、過去から目を背ければ、そこに成長はありません。
一時的な利益を手にすることができたとしても、少々の利得は結果として、より大きな欲望のもとにすべて奪われてしまう。そして、結果として、そこに日本人も巻き込まれてしまう。
そのことを、通州事件は象徴していると思います。

差別だの右翼だのと、いたずらに対立を煽るのではなく、事実を事実として直視して、そこから立ち上がる。
それができるのが人間です。
できないのは、ケダモノです。



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