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1867年11月9日(慶応3年目10月14日)、第15代将軍徳川慶喜が、政権返上を明治天皇に奏上された日です。


1853年(嘉永六年)に黒船がやってきて、
1867年(慶応三年)に王政復古の大号令が詔され、
1868年(慶応四年)に戊辰戦争が起こり、
同年、元号が明治に改元されました。
同じ時期、海を渡った向こうでは、1861年(万延元年)から1865年(元治元年)にかけて、南北戦争が行われました。

南北戦争は、最終的に北軍220万、南軍100万の兵力が激突し、両軍合わせて120万以上の死傷者を出した、米国にとって、国の誕生から今日に至るまでの最大の大戦争です。
一説には大東亜戦争での米軍の死者が約35万人といわれています。
ちなみに日本では、戊辰戦争による死者が、官軍と東軍合わせて8000人くらいです。明治維新全体でも、1万人くらいの死者です。
米国の南北戦争が米国にとってどれだけ大きな戦争だったのかがわかろうというものです。



さて日本では、南北戦争という呼び方をしますが、正式な英語名は「American Civil War」です。
直訳すればアメリカ市民の内戦、もしくはアメリカ市民戦争となります。
ただし南北戦争は、日本の明治維新のときの戊辰戦争のような「内戦」ではありません。

戊辰戦争は、陛下の率いる官軍が、陛下に従わない幕軍を討伐する、というあくまで国内の「内戦」です。
けれど南北戦争は、南軍11州は「アメリカ合衆国」から離脱して、「アメリカ連合国」を名乗っています。
つまり南北戦争は、朝鮮戦争と同じで、内戦ではなく、国際戦争という位置づけになります。

ただし、戦争といいながら、南北戦争に宣戦布告はありません。
1861年2月から4月にかけて南部11州がアメリカ合衆国から離脱を表明し、4月に南軍がサウスカロライナ州チにある「サムター要塞」を砲撃して、いきなり戦端が開かれました。
この時点で、南部11州は、まだ大統領も決まってない状態でした。

北軍も、この時点では陸軍が総数でも1万6千しかいなかったし、武器も旧式の装備しかありません。
海軍も船舶はわずか42隻で、兵員数はたったの7600人でした。
南軍にいたっては、まだ正規軍すらできていない状況でした。

開戦目的も曖昧でした。
南軍には、南部諸州の産業を維持し、綿花の自由貿易を推進し、侵攻してくる北軍に対して、自分たちの郷土を守るという、一応の理屈はあるし、またそのためにこそアメリカ合衆国からの離脱を図ったのですが、北軍側には、南部11州の独立を許さないという以外、戦争目的といえるものがありません。

私たちは、戦後の米国礼賛教育の中で、「南北戦争は米国による奴隷解放のための戦いだった」と教わっていますが、当時の北軍側には、南部諸州で働く黒人奴隷を解放することに若い白人兵士たちが命をささげるというだけの人種平等主義は育っていません。

そもそも宣戦布告がない。しかも戦争目的が不明確、さらに南軍側は大統領さえまだ決まっていないという中で、気がついたら戦争が始まっていて、両軍合わせて120万以上もの死者を出したというのですから、これまたすさまじい話です。

ついでに申し上げるならば、堂々と宣戦布告を行ってから戦争をはじめるというのは、世界の歴史上、日本くらいなものです。
日本では、武道の心得もあって、戦いは、果し合いであれ、戦闘であれ、すべて「礼にはじまる」のがあたりまえの常識です。
若いオニイサンたちがケンカをする場合でも、最初に出る言葉は「オイ、表に出ろ!」で、これもいわば宣戦布告の一種(笑)。

けれど世界の戦史を見れば、ご丁寧に宣戦布告をしてから戦争を始めている国自体が、きわめてめずらしい存在であることがわかります。
日本は大東亜戦争で、真珠湾の奇襲がどうのとさんざん言われているけれど、宣戦布告文を、後先の問題は別として、すくなくとも時間通りにちゃんと届けようとしたというのは、それが日本だからで、さらにいえば日本人は、真珠湾の爆撃開始より、宣戦布告分の手渡しの時間が少し遅れたと責められると、気分として、申し訳ないと思ってしまう。

けれどそれは、私たちが日本人で、礼儀や、ものごとのケジメをきちんとしなければ気が済まない民族だから、そうなるだけのことで、世界の歴史では、むしろ宣戦布告などないのが「あたりまえ」で、卑怯も卑劣もなくて、ただ「勝てば良い」というのが、世界の現実です。

さて、こうしていきなり始まった南北戦争ですが、開戦に先立ち、なぜ南部11州がアメリカ合衆国から脱退し、「アメリカ連合国」を組成したのかを知っておく必要があります。
アメリカ連合国(正式名称Confederate States of America)11州というのは、ミシシッピ州、サウスカロライナ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州、バージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州です。

これら11州の主たる産業は綿花栽培です。
この時代まだ石油はありません。
要するに化繊なんてなかったわけで、ですから人々の衣類は、もっぱら綿が中心です。

特に産業革命以後のイギリスでは、繊維製品加工業が大発展しており、彼らはアメリカ南部諸州から、綿花を安く輸入し、これを機械で糸にし、布や衣類に加工し、できあがった製品を世界中に輸出していました。

当時の英国は、まさに七つの海にまたがる大帝国です。
繊維製品には大英帝国製というハクもつきます。
英国製の生地や仕立物は、まさに世界中でひっぱりだことなり、つい何十年前までは、英国製生地仕立てといえば高級背広上下服として、1着数十万円で売買されていました。
ちなみに私の背広上下は、タイ製の上下で7千円の吊るしです(笑)

アメリカ南部諸州は、広大な土地で、綿花を栽培する。
集荷した綿花を英国に運ぶ。
英国はこれを生地に仕立てる。
その生地が世界中で売れる、という流れが当時はできていたのです。

ですからこの時期、アメリカの南部諸州は、綿花を作れば売れました。
馬鹿みたいに売れました。
作ったら作った分だけ売れました。

当然、農場は広大になり、格安労働力として黒人奴隷が使われ、農場は見渡す限りに広がり、綿花の輸出で大儲けした各家は、豪華な宮殿のような屋敷を作り住みました。
映画「風とともに去りぬ」で有名なスカーレット・オハラが住んだ、まるで王城のような立派な屋敷は、まさにその時代の南部の白人の姿そのものであったわけです。

一方、北部諸州はどうかというと、気象条件の違いで、綿花の生産というわけにいかない。
そこで北部諸州は、むしろ綿花を加工する工業化を促進しました。
つまり英国の繊維産業を、自前で展開しようとしたのです。

ところが七つの海を制し、世界に市場を持つ英国と根本的に違うのは、北米諸州には、それだけの市場がないということです。
英国のようなブランド力もありません。
モノを作れば売れたわけではないのです。
モノは、売り先があってはじめて売れる。

だから北部諸州は、海外の、まだ英国が手をつけていない地域を植民地化し、そこに新たな市場を築こうと模索しました。
一方では綿花の輸出を制限し、保護貿易化を推進して、いわば強制的に国内での綿花流通を盛んにしようとした。

ところが、です。
これをやられると困るのが、南部諸州の農場主たちです。

彼らは生活のすべてが、綿花を作ることと、これを英国に輸出することで支えられているのです。
にもかかわらず、北部合衆国政府は、アメリカ国内での繊維産業を活性化したいから、英国との自由貿易を許さない、というのです。

とうぜん農場主たちは怒ります。
農場主たちに支えられた、南部諸州の政治家も怒る。
そりゃそうです。死活問題なのです。

そこへもってきて1860年(万延元年)には、リンカーンが大統領に就任します。
貿易を保護貿易化され、輸出入に関税がかかり、米国南部諸州産の綿花が国際競争力を失い、リンカーンの政治主張である奴隷制の廃止なんてのが実現してしまったら、南部の経済は壊滅してしまいます。

ところが開戦時点では、北軍、南軍ともに、兵士はおろか軍備すら準備できていません。
それなのにどうして北軍は、わずかの間に220万もの兵力を用意し、その兵全員に最新式の銃で装備させるなどという芸当ができたのでしょうか。

しかも開戦時点では、アメリカ合衆国の主たる産業は、むしろ南部11州の綿花栽培であり、北軍諸州の機械工業は、いまだ市場も確立していず、産業として育っていません。
要するに北軍の方が南軍側よりはるかに貧乏だったわけです。

それなのに北軍は、220万の将兵に真新しい制服を着せ、最新式の銃を持たせ、さらに最新式の大砲を取りそろえて、南軍諸州に移動させ、攻め込んで勝利を得ています。
すこし考えたら誰でもわかることですが、これには莫大な戦費がかかります。

お金持ちだった南部11州でさえ、戦費の調達のために、ヨーロッパで外債を発行しているのです。
戦いにはお金がかかるのです。
ところが北軍は、1ドルの外債さえも発行することなく武器や兵を揃えて戦いを進め、さらに戦後には南部が発行した戦時国債を全部引き受けて代払いしただけでなく、その直後にはなんと広大なアラスカをロシアからまるごと買い取っています。

北軍側は、いったいどっからそんなお金が湧いて出て来たのでしょうか。
実はそこに日本が重大な関係をしています。

人類が誕生してから、現在に至るまでに世界で算出した金(Gold)の量は、オリンピックプールに換算して、およそ三杯分です。
そしてそのうち、なんとまるまる一杯分が、日本産です。
マルコポーロは、日本を指して「黄金の国ジパング」と呼びましたが、かつての日本は、まさに「黄金の国」そのものだったのです。

おかげで江戸時代の日本では、普通の庶民が財布に一万円札の代わりに黄金でできた小判を入れていました。
一般庶民がの間では、生涯に一度は、お伊勢参りに、金毘羅詣、皇居勤労奉仕、富士山登山などののような旅をすることが常識でした。
私がいま住んでいる家の近所では、昔は富士山信仰があり、何年に一度は村のみんなで富士山登山にでかけ、溶岩を持ち帰っては、これを積み上げて、おかげでいまでは高さ5メートルほどの溶岩山が、神社の境内にできています。

江戸時代には、こうしたツアーを行うための旅行代理店もあり、旅は船や徒歩でしたから、都度、馬鹿にならない費用がかかったのですが、一般庶民が普通に、そうしたツアーに参加していたわけです。
江戸時代の農家は、現代日本よりもよほど豊かだったのです。

そうした旅に出るときは、作法として、着物の衿(えり)に、小判一枚を縫いこんでおくのが常識でした。
旅の途中で万一、旅の行き先を間違えた(急にあの世に行くことになった)とき、自分の遺体を世話してくれる人への、お礼です。
小判1枚は、いまだとだいたい6万円相当ですから、それなりの謝礼金の意味をなしていたわけです。

そんな具合ですから、いまの日本人は財布の中に、紙(紙幣)を入れていますが、江戸時代には、誰もが黄金を懐に入れていたわけです。
少し考えたらわかるのですが、そこらを歩いたり電車に乗っている人みんなの財布の中に、黄金でできた小判が何枚かはいっている。
それが日本全体になったら、いったいどれだけの黄金の流通量だったのか。
想像しただけで、気が遠くなるような話です。
どれだけ日本が黄金の国だったのかがわかろうというものです。

すこし余計なことを書くと、黄金がたくさんあったことで、江戸の昔から歯の治療といえば金歯が主流でした。
我々の祖父の時代までは、年寄りがニヤリと笑うと、総金歯がごく普通でしたし、入れ歯といえば、いまどきは白い歯をポリデントで洗浄しますが、昔はそれが黄金製でした。

総金歯といえば、獅子舞の獅子も、総金歯です。
おそらく、百獣の王ライオンを総金歯にしたてて「おめでたい」と喜んでいるのは、おそらく世界広しといえども日本くらいなものではないでしょうか。
まさに日本は、掛け値なし、ほんものの「黄金の国ジパング」だったわけです。

その日本に、嘉永六(1853)年、アメリカから黒船がやってきたわけです。
南北戦争の8年前の出来事です。
鎖国をしていた日本は、とりあえずペリーを上手に追い払い、まる一年、問題を先送りの塩漬けにしました。

もともとアメリカが東南アジアに進出しようとした目的は、英国にならぶ繊維製品の販売市場を東亜に求めようととしてのことです。
南部で生産された綿花を用いて、北部諸州に、英国に代わる生地の製造業を育てようとしたのです。
そのためには、英国と同様、綿織物の輸出先が必要になります。
それを東亜に求めたわけです。

ただ、実際にペリーが日本に来てみると、日本人は綿だけでなく、麻や絹まで自国で生産しています。
しかも紡がれる織物は、まさに工芸品で、世界中のどの国の製品よりも品質が良い。
これでは米国は商売になりません。
さて困ったと思っているところに、米本国からハリスがやってきます。
そして日本の国内事情を調べると、なんと、日本では金(きん=gold)がめちゃくちゃ安い。

当時、世界の相場は、メキシコ銀貨4枚で、金貨一枚と交換です。
ところが、日本では、メキシコ銀貨一枚と一分銀4枚が等価、一分銀四枚と慶長小判一枚が等価です。

つまりメキシコ銀貨一枚を持って日本に行くと、慶長小判一枚と交換してもらえる。
その慶長小判一枚を香港に持ち込むと、メキシコ銀貨四枚と交換してくれる。
つまり香港と日本をいち往復するだけで、手持ちの金が、あら不思議。なんと四倍に増えたのです。

これを知ったハリスは大喜びします。
で、彼が何をしたというと日本との間で、日米和親条約を取り交わしました。
これが嘉永七(1854)年のことです。

学校ではここまでしか教えないけれど、この条約そのものは、体のいい能書きしか書いてありません。
大切なのはそのあとに交された日米和親条約の細則、つまり「下田条約」です。
その細則で、ハリスは米国と日本の金銀両替相場を固定相場にしてしまったのです。

この結果ハリスは、香港と日本を往復するだけで、巨万の富を手にします。
どのくらい儲けたかというと、なんと京(ケイ)の位まで儲かったそうです。
京(ケイ)というのは、1兆の1万倍です。

当時、小判入手を目的とするメキシコ銀貨の一分銀への両替要求は、一日になんと1万6千枚にも上ったそうです。
おかげで国内に流通すべき一分銀は巷から消えてしまうし、日本の小判も国外に流出して、巷から消えてなくなってしまいます。

やむなく幕府は、見た目が同じで含有金量が慶長小判の約4分の1しかない万延小判を鋳造します。
これが万延小判で、万延元(1860)年の出来事です。

いまの日本から、こつ然と一万円札がなくなった姿を想像してみてください。
当然日本国内ではたいへんな混乱がおきると思います。
ところが、そのあとに政府が発行した新一万円さつが、実際には2500円分しか使えないとなったら、世間はどう思うでしょうか。
月給20万円の約束で入社して、たしかに額面は20万円の給料をもらったのだけれど、その20万円では5万円分の買い物や支払いしかできないのです。
民衆の間に、政治不信どころか、政府そのものへの信頼が崩壊することでしょう。
それが現実になったのが幕末でした。

これが起きたのが、ちょうど南北戦争が起きる一年前の出来事です。
そもそもハリスはどういう人かというと、アメリカ合衆国の外交官です。
要するに公務員です。
そして第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)の子分です。

ハリスが日本の金で大儲けした金は、アメリカ合衆国の収入です。
ここがハリスの偉いところで、それだけの巨万の富を個人的に稼げば、彼はアメリカの新大統領になることも、あるいは米国を買い取って米国王となることもできたかもしれません。
けれど、ハリスは、どこまでも国のため、リンカーンのために働いたのです。
そういうところが、「憎しみと恨みと欲望と穢れ」を根本にしているどこかの国の人と違うところです。

さて、リンカーンは、南北戦争を戦い、勝利しました。
では、リンカーンの勝利の原因となった、その莫大な戦費は、いったいどこから生まれたものだったのでしょうか。
答えは、もうお分かりのことと思います。

ところが話は、これだけでは終わりません。
南北戦争が終わると、武装解除した南軍から、大量の武器、弾薬、大砲、砲弾、軍服が没収されました。
南北戦争は1865年に終わるけれど、これは日本でいったら慶應元年です。
そして幕末、官軍と幕軍が戦った戊辰戦争は、慶應四年にはじまっています。

万延小判によって、金の国外流出を防いだ日本から、さらにお金を引き出すには、この武器や弾薬、軍服を日本に買わせることです。
そのために、米国は幕末の改革に意欲を燃やす志士に裏でお金を渡して国内の紛争をあおり、さらに英仏に声をかけて、英国には薩長へ、フランスには幕府側に、南軍から没収した中古品の装備を売りつけました。

幕末戊辰戦争の時代の、薩長軍と幕軍の装備を見ると、どちらも同じ制服、同じ銃を所持していますが、その理由は、こうしたカラクリがあったからです。
アメリカ北部州は、日本からせしめた金で南北戦争を戦い、戦後は余った武器を、ひとつはフランス経由で幕府に、ひとつは英国経由で薩長に売り、そこでまた巨額の儲けを出したのです。

日本からみると、アメリカに金貨をだまし取られ、国内の金貨が空っぽの状態で、青息吐息でさらにアメリカから中古武器を買って戊辰戦争を戦った、ということです。

当時の日本は、金の流出と、それへの対策としての小判の改鋳(小判の金の含有量を落とした=万延小判)によって、国内経済は大混乱し、幕府政治の失態への怨嗟の声は日本中に満ち溢れていました。
つまり、国内的に対立の火種がありました。
そこにフランス、イギリスがそれぞれ幕府側、薩長側に付き、互いの戦争をあおったわけです。
そしてアメリカからは、大量の格安中古武器がやってくる。

アメリカは、自分では日本に売りません。
なぜかというと、自分で売ったら、薩長か幕府側か、どちらか一方にしか中古武器を売れないからです。
けれど英仏を経由すれば、官軍、幕軍、両方に武器を売れます。
すると倍の量がさばけます。ということは倍儲かります。

「おさむれえさん、新しい銃なら、銃一丁10万円なんスよ。
 けどね新品同様の中古品なら、一丁2万5千円でいいッスよ。
 しかもね、銃一丁につき、弾薬千発つけちまう! 
 どうです? いい買い物でしょ?
 いまなら、もれなく、新兵器の指導教官付で売りまっせ」

おかげで、百姓町人まで武器を持って武家と戦うことになったのが戊辰戦争です。
アジア諸国でも、アフリカでも、こうして内乱をあおると、同じ民族内部で血の抗争が始まり、それは次々に飛び火して極めて大規模な内乱に成長していくものです。
当時の日本の人口は約3千万ですが、だいたい有色人種国でこの種の内乱が起き始めると、世界の常識では、約1千万人が死にます。
そうして国が疲弊して、統治能力さえも失われたところを植民地化するわけです。

ところが武器まで提供して戦を煽ったのに、江戸城は無血開城してしまいました。
上野のお山の彰義隊や、長岡藩や会津藩、二本松藩、函館五稜郭等では激しい戦いが繰り広げられましたが、(世界の常識からすれば)瞬く間に乱は集結してしまい、逆に日本には意図しない統一国家が誕生してしまいます。

それで清国に体力を付けさせて、清国をけしかけて日本と戦争させるのだけれど、これまた予期に反して日本が勝利してしまう。
その日本の勝利を認めずに、両国の戦後処理条約に介入して、日露を戦わせるのだけれど、これまた日本が勝利してしまう。
それどころが、大東亜で血みどろの戦いを行って、世界中から植民地を消し去ってしまう。

実は、嘉永6年の黒船来航によって始まった明治維新は、いまなお続いています。
なぜなら、明治維新の戦いは、人々が「愛と喜びと幸せと美しさ」を大切にして生きることのできる日本を護るための戦いだったからです。
そしてそれは、ごくひとにぎりの人たちが世界を支配し、自分たちだけの「愛と喜びと幸せと美しさ」の世界を獲るために、世界中の民衆を踏みつけ支配することとの戦いであったということができます。
そうであれば、いまなお、日本の戦いは続いているのです。

つまり、いま日本で、日本の「愛と喜びと幸せと美しさ」という国柄を護るために立ち上がっている人々は、明治維新の志士たちと同じ延長線上にいる維新の志士たちなのです。
そして世界の民衆が「愛と喜びと幸せと美しさ」を求め続ける限り、日本の勝利は確実であり、それは世界から意図的に造られた「憎しみと恨みと欲望と穢れ」を祓う戦いでもあるのです。





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