江戸時代の外交資料「朝鮮通信使に関する記録」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されることが決まりました。
朝鮮通信使とは、どんなものだったのでしょうか。


韓国の歴史教科書によると、江戸時代に、朝鮮から来日した朝鮮通信使は、徳川幕府が経済的に困窮に陥ったために、先進文物を取り入れようと、李氏朝鮮王に懇願して招いたものだったのだそうです。

それがいかにデタラメな捏造にすぎないか。
今日は、たっぷりと書かせていただきました。


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さて、本題に入る前に、昨日の記事で、日本は鎖国と開国を繰り返してきた、というお話を書きました。

ちなみに平家の落人のことを昨日の記事に書いていますが、平家の落人狩り、あるいは徳川幕府による豊臣の落人狩りのいずれもそうですが、平家一門や豊臣一門を、全国津々浦々に追いつめて殺害したという事実はありません。
そのように言われているだけです。

実際には、平家あるいは豊臣の時代に日本に帰化して日本に住み着いた渡来人のなかの、いわゆる「不逞外国人」を追いつめて狩ったにというのが実際のところです。
実際、平姓を名乗る方は、いまも多くおいでになるし、豊臣の残党といっても、たとえば安芸浅野家なども、まさに秀吉の妻の兄の家柄ですが、ちゃんと幕末から現在にいたるまで、家名を存続させています。

もし本格的に平家に連なるもの、あるいは豊臣家に連なる者を皆殺しにしたのが、残党狩りというのなら、こうして家系がいまも存在していることなど、あり得ません。
もっといえば、平家を追いつめた源氏は、鎌倉三代将軍で事実上滅び、平家一門の北条家が幕府の執権となっています。
また、徳川幕府二代将軍秀忠は、まさに秀吉の養子だった人物です。

残党狩りはありました。
にも関わらず、平氏も豊臣の血筋も今に残っている。
要するに「残党狩り」の対象になったのは、あくまで「残党と称して悪さをする人」であったということです。
そしてその中の多くは、おそらくは支那、朝鮮からの不逞渡来人たちであったであろうことは、その後に、国内治安が極めて良好になっているという史実を考えれば、簡単に察しがつくというものです。

日本には、どこぞの国のように他民族や異教徒を一方的に殺戮したり、弾圧したという歴史はありません。
むしろそれらを自然な形になんとかして日本の文化の中に取り込もうと努力を重ねる。

たとえば米国でさえ、大東亜戦争の頃、米国在住の日系人を全員拘束して収容所送りにしています。
支那の民族浄化と称するウイグルやチベットへの弾圧や殺戮は、まさに現在進行形の事態です。

これに対し日本は、たとえば関東大震災の渦中においてさえ、警察は朝鮮人を保護しています。
むしろ、朝鮮人だからといっていたずらに排除するのではなく、あくまで排除の対象は、不逞行為を働いた者に限る。取締の対象は、あくまで不逞行為であって、人種や民族ではない。
そういう姿勢は、昔も今もなんら変わりません。

元寇のあと、神風に生き残った元と朝鮮の兵士たちを、鎌倉武士団が多数拿捕し、首を刎ねているけれど、これさえも、そうした元、朝鮮兵たちが、強姦、強盗、窃盗等の狼藉を働いたことが原因です。
悪ささえしなければ、日本は、戦時捕虜は、ちゃんと当該国に国費をもって送り返しています。

「送り返す」といえば、秀吉の朝鮮征伐の際に、捕虜として日本に連れて来られた支那人、朝鮮人等がいます。
これらは、儒者、陶工などの特定の技術知識集団で、それら知識や技術を学ぶために、日本が連れ帰った者たちです。

当時の記録を見ると、これらは「捕虜」というより、むしろ知恵のある者たちとして、敬い、歓迎されたとしています。
ですから、なるほど彼らには「国に帰れない」という悲しみはあったかもしれないけれど、知識人あるいは技術職人として、日本にいて、尊敬され、敬われ、十分な食物や、身の回りの諸事をこなす家人さえも与えられ身分の保障までされています。

ところが、名目上は「戦時捕虜」となるこれら渡来職人たちについて、当時の李氏朝鮮は日本に対して返還を申し出ます。

日本が朝鮮半島から連れてきたのは、儒家と技術者(陶工)です。
このうち、儒家はほとんどが帰国を希望したため、あご足つきで、朝鮮に送り返しています。

ところが、技術職人である陶工たちは、その多くが朝鮮帰還を拒否し、自らの意思で日本に残りました。
これには理由があって、李氏朝鮮では、陶工たちは白丁(奴隷)であり、収奪の対象であり、最下層の賤民です。
上から司令されたものを強制的に作らされ、少しでも反抗したり、作ったものが両班の気に召さなければ、極めて残酷な体罰が科せられました。

ところが日本では、古来、日本社会は技術者(職人)を高く評価され、研究、開発まで面倒をみてくれ、家人まで与えてくれる等の便宜まで図ってくれ、体罰による身の危険もなく、好きなだけ、思う存分に仕事ができる。
もちろんなかには、それでも日本人を信じられなかったり、どうしても故郷に思い残すところがあって帰国を申し出た者もいたけれど、ほとんどの職人たちは、むしろ日本に残って腕を振るいたいと願ったのです。
つまり、圧倒的大多数の朝鮮人職人さんたちは、日本に居残ったわけです。

ところが李氏朝鮮にしてみれば、これが気に入らない。
あくまでも「返せ!」というわけです。

そうした李氏朝鮮の姿勢は、特に朝鮮との国境を接する対馬の対馬藩にしてみれば、大きな問題です。
なぜなら対馬藩は、島の田畑に限りがあるため、基本的に海洋からの漁労収入と、日本本土および朝鮮との交易が藩の財政と民政の柱だったからです。
つまり対馬藩は、日本と朝鮮の間にあって、昔も今も、たいへんなご苦労をされていたわけです。

対馬の領海内での漁業操業の安定化のために、対馬藩は、徳川幕府と李氏朝鮮の和解を願いました。
一方、李氏朝鮮は、慶長の役のあと、ようやく明軍の脅威が去り、国情が安定してきたのだけれど、そうなると、むくむくと鎌首をもたげてくるのが、いつもの朝鮮の自尊肥大です。

李氏朝鮮は、対馬藩に対し、日本が朝鮮征伐の謝罪をし、捕虜を帰すなら、国交を開いても良いともちかけます。言うことをきかなければ、武器を持たない対馬の漁民に対して危害を加え、対馬に軍を出すというのです。
いつもの朝鮮のやり方です。
そうなったとき何が起こるか、対馬の人たちには、元寇の際の苦い思い出があります。
皆殺しにされ、女達は強姦され、裸にして軍船に吊るされた。

こうした李氏朝鮮の意向に、対馬藩がどれだけ困ったかは、想像に難くありません。

一方で、日本側の見方はどうかといえば、当時の李氏朝鮮を「国」としてさえ認識していません。
どういうことかというと、当時の日本もいまの日本も同じで、国は民のためにある、民あっての国である、というのが、古来変わらぬ日本人の考え方です。
そうした日本人の眼から見ると、当時の朝鮮半島は、李氏朝鮮という明と通じた暴力団が、朝鮮半島内を縄張りとして身勝手な暴虐暴政を行っているだけの未開の地域でしかない。

当時、全世界の鉄砲の半数を保持し、世界最強の軍事大国となっていた日本にとって、そうした朝鮮半島の暴力団との交流は、「外交」の名にさえ値しないと考えられたのです。
これは、おおむね正しい認識というべきです。

そうはいっても、相手が暴力団のようなものだからこそ、対馬藩にしてみれば、一層困るのです。
やむをえず対馬藩主の宗義成は、朝鮮出兵とは無関係の藩内の罪人たちの喉を水銀で潰して声を出せないようにしたうえで、「朝鮮人捕虜」として、李氏朝鮮に差し出します。

李氏朝鮮側も、形式が整っていれば「日本が捕虜を帰した」と公式には発表できるため、事実を知りながらこれを黙認して捕虜(実は罪人)たちを受け取りました。
李氏朝鮮の要求に従ったわけですから、これでひと安心、となるはずでした。

ところが、ひとつ要求が通ると、ますます増長して要求をエスカレートするのが、古来変わらぬ朝鮮人の特徴です。
今度は、日本の徳川幕府に、「国書をもって朝鮮征伐行為を謝罪せよ」と言ってきたのです。

日本にしてみれば、戦いの相手は、あくまでも明国です。
朝鮮半島にある李氏朝鮮は、明国の出先機関であり、同じ朝鮮人から搾れるだけ搾り取っている暴力団でしかありません。
つまり、李氏朝鮮は国家の名にさえ値しない。
仮に大東亜戦争で玉砕した島しょの守備隊長が、米国政府に向かって謝罪を要求したとしても、米国がまったく相手にしないというのと、同じことです。

けれど、そうはいっても、その朝鮮と領海を接する対馬藩にとっては、李朝との交流は、死活問題です。
困りきった対馬藩宗家では、慶長10(1605)年、日本の謝罪国書を勝手に偽造し、李氏朝鮮に提出しました。
とんでもない、というご意見もあろうかと思いますが、李氏朝鮮は、日本の謝罪さえあれば、それ以上、ことを荒立てることなく、対馬藩の領海への侵害もしないと約束したのです。

このことは、平成10(1998)年の日韓共同宣言のときの日韓外交と酷似しています。
このとき日韓共同宣言をまとめたのは、当時外務大臣だった高村正彦氏(衆議院議員、現・自民党副総裁)ですが、氏はこのとき、金大中韓国大統領(当時)から、
「一度謝れば韓国は二度と従軍慰安婦のことは言わない」と説得され、
「痛切な反省と心からのおわび」を共同宣言に明記しました。

その結果何が起こったかといえば、ひとたび日本政府から「反省とお詫び」を引き出すや、韓国は手のひらを返したように、今度はこの共同宣言をネタにして、慰安婦問題を日韓関係のカードに使い、賠償を要求し、韓国への巨額の財政援助をゴリ押しし、さらに世界中で、日本が朝鮮人をセックス奴隷にしたと宣伝してまわっています。

日本人の感性では、「綸言汗の如し」といって、ひとたび口に出したなら、それを守るのが信義の道です。
まして、国や公共団体などの公的なものは、嘘は許されない。
前言をひるがえすなど、あってはならないこととされています。

ところが、朝鮮蛮族には、そうした考えはありません。
ケモノと同じで、「いま」が満足できれば、真実などはどうでもいい。
要するに、ケモノたちにとっては、約束などは、その場限りの言い逃れにすぎないのです。

実際に、朝鮮半島に渡り、そうした朝鮮人の習性を、日常的に目の当たりにしていた慶長・元和・寛永の頃の日本は、ですからそうした朝鮮人の体質、政情を体験的に熟知しています。
ですから、家康も、秀忠も、家光も、李氏朝鮮の言い分など、まるで頭から相手にしていません。

ひとつ皮肉な話があります。
対馬藩のことです。

対馬藩は、国書まで偽造して李氏朝鮮との関係修復をしようとしました。
これを推進したのが、藩主の宗義成です。
けれどこうした二枚舌は、日本人がもっとも嫌うものです。

このため家老であった柳川調興(やながわしげおき)が、三代将軍徳川家光に、「嘘はいけない」と藩主の宗義成を告訴したのです。

柳川調興というのは、たいへんな教養人で、支那語、朝鮮語にもよく通じ、古今の書物にも精通する人物でした。
おそらく、それだけに藩主の行動が許せなかったのでしょう。

江戸幕府内でも、幕府の官僚の一部は、柳川氏の意見を、もっともだと評価したようです。
そこで江戸幕府では、家光の命で、江戸城大広間に、江戸にいた全国の大名を全員総登城させたうえ、将軍家光の前で、対馬藩主の宗義成と、対馬藩家老の柳川調興を直接対決させました。

理は、柳川調興にあります。
嘘はいけない。
まして国書の偽造など、もってのほかです。

ところが、その場にいた全国大名の総意と、家光の判断は同じでした。
結論は、藩主宗義成はお咎めなし。
家老の柳川調興は津軽に流罪となったのです。

なぜでしょう。
なぜ嘘はイケナイと言った柳川調興が罰せられ、偽書を書いた宗義成が無罪とされたのでしょう。
普通に考えれば、これはおかしな判決です。

けれど、このことは時代背景を考えると、理由は明白です。
現実に朝鮮出兵をしてきた全国の大名たちからすれば、民を人として扱わず、民に対して暴虐と貪りの限りを尽くし、平気で奪い、殺し、その肉を食らう李氏朝鮮の一族は、まさに獣であり、国の名に値しない。
獣に対して自己防衛のために偽書を送り、対馬藩の民衆の安寧を図るのは、たびたび熊に襲われる村人たちが、熊に偽の餌を与えて、熊からの被害を食い止めようとするのと同じである。
つまり、宗義成の行動は、藩主として当然の行いであると看做したのです。

そして李朝を「人の王朝」と考える家老の柳川調興のほうが、むしろ実態をわきまえない「曲学阿世の徒」であり、さらにはその曲学に基づいて藩主を告訴するなど、もっての他です。
だから、遠島流罪となった。

江戸の武家社会では、この事件を「柳川一件」といい、幕末から明治にかけても、学問が空理空論に走ることを戒めた事件として、大切な教訓とされました。

要するに簡単に言うと、勉強ができて通訳ができるからといって、民を靖んじるという執政の本義を失っては、国民の生活を守ることはできないし、そういうことでは人の上に立つ武士は勤まらない。
いかに学問ができ、いい大学を出ようが、いくら理屈を言おうが、国を靖んじ、民の安寧を離れては、それは曲学阿世の徒でしかない、ということです。

もっとも対馬藩では、この事件で漢籍、朝鮮語に通じた柳川調興がいなくなり、朝鮮と直接交渉ができる通訳がいなくなってしまった。
やむなく藩主の宗義成は、幕府に泣きついて京都五山の僧の中から漢文に通じた碩学を派遣してもらい、ようやく外交ができる体制を整えたという後日談まで残っています。

さて、こうした対馬藩宗家の努力もあって、李氏朝鮮からは、江戸時代を通じて、都合12回、朝鮮からの特使(朝鮮通信使)が、来日しています。
(最終回の12回目は、対馬に差し止めとなり、日本本土には来ていません)

初回が慶長12(1607)年で、最終回が江戸後期の文化8(1811)年です。
当初の3回は、国交回復や捕虜返還交渉のためとされていますが、以降の9回は、いずれも、新将軍就任の祝賀のための来日です。

その朝鮮通信使の第11回目、おおむね朝鮮通信使が、制度として定着していた宝暦14(1764)年の朝鮮通信使の記録が、いまに残っています。

このときの朝鮮通信使は、徳川家治が第11代将軍に就任したことへの祝賀のための来日です。
その通信使の一行の中に、金仁謙という者がいて、来日したときの模様を詳細に書き遺しているのです。
これが「日東壮遊歌」で、本にもなっています。
希少本で、いまでは古本がすごい高値になっていますが、この本の中に、当時の朝鮮人官僚が見た率直な日本への感想が書かれています。