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http://youtu.be/tX6CMgt2Gcs


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 花の色は 移りにけりな いたづらに
 
    わが身世にふる  ながめせしまに


  「降る雨を眺めている間にも、季節ごとに様々な花が咲いては散っていきます。咲く花ごとに、たくさんの恋が芽生えては消えて行きます。わたしもいたずらに年を重ねてしまったけれど、また我が身を焦がすような恋をしてみたいものだわ」という意味となるものと思います。

いくつになっても、恋する心を忘れない。
その恋は、いくつになっても、女性を美しく輝かせます。
ですから、美しい小野小町は、また、いくつになっても、恋するトキメキを忘れないういういしい心を持つ女性でもあった、その心が託された歌が、この歌の心であろうと、思います。

申し訳ないが、いくら若い頃美しくても、年をとって心身共に色あせてしまったら、もはや美人とは呼ばれません。
百人一首が、この歌を、天下第一の美人の歌として選んだのは、小野小町が、単に若い頃美人だったというだけでなく、いくつになっても、心の若さと恋するトキメキを忘れない女性であったからこそ、なのではないかと思います。

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 いろ見えて
 うつろふものは世の中の
 人の心の
 花にぞありける


これは通解では、世の中の人の心なんてものは、みるみる変わって行くものだという意味とされています。
けれど、よく読めば、「色=空(色即是空、空即是色)」ですから、「世の中の人の心なんてものにはカタチなんてないものだけれど、カタチがないからこそ『花』なんだよね」という意味になります。
そしてその「カタチのないもの」を愛する心こそが、美しさといえるものなのではないか、そんな意味が込められた歌と読めるのです。

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 うたたねに
 恋しき人を見てしより
 夢てふものは
 たのみそめてき


うたた寝してたら恋しい人の夢を見ました。夢は頼りなく儚(はかな)いものだけれど、その人の夢をみることを頼みに思う(夢で遭いたいと願う)ようになりました、というわけです。
若い頃なら、逢いたいと思う人には、ある意味、簡単に逢うことも可能です。
けれど、年を重ねて来ると、様々な制約のもとで、逢いたいと思う人になかなか遭えなかったりする。
そんな逢いたくても逢えない人に、夢で逢おうとする女性の心。
はかなくもあり、また情熱的でもある、そんな女性の想いを、この歌はとても格調たかくあらわしているように思えます。

これが92歳まで生きたとされる小野小町の歌なのです。
いくつになっても、恋する心を忘れない。
そういう、実年齢にかかわらずいつまでも輝きを失わない、あるいは美しいままで輝きを放ち続ける小野小町の心が、まさに日本を代表する美女として、小野小町が千年以上にわたって賞賛され続けた理由なのです。



世に「傾国(けいこく)」とか、「傾城(けいせい)」とされた女性は、数々います。
世界各国で、美女と賞賛された女性の多くは、若くて美しくて、そのあまりの美しさゆえに、国王や武将の心をとらえて放さず、ついには猛将と呼ばれた男でさえも、その美女のために国を滅ぼしてしまう。
だから「傾国」です。
トロイのヘレネしかり、楊貴妃しかり、クレオパトラしかりです。

けれど日本における美女は、単に若さとか美貌だとか、スタイルが良いということだけを問題にしたものではありません。
それ以上に、年輪を重ねるごとにますます磨かれ、完成されていく人間としての心根の美しさを失わない、若さとか、スタイルの良さとか、見た目の美しさだけじゃない、そういう輝きを持った心をこそ、私たち日本人は、千年以上もの昔から、美女として大切にしてきたのです。



小野小町


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もう、この歌は、私などは大好きな歌で、これほどまでに男心をとろかし、また女性に憧れを抱かせ、知的で美しく、たおやかでいて、しかもしなやかな歌は、古今の歌の中でも、まさに筆頭と言っても良いくらいの素晴らしい歌だと思います。

この歌の解説については、過去記事の「小野小町」にも書いていますので、すでに意味のおわかりになる方も多いかと存じます。

けれど、ものすごく残念なことに、この素晴らしい歌を、最近の和歌の解説本では、どれもこれもすべての解説本が、
「花はむなしく色あせてしまったわ。世の雨を眺めている間に、私の容姿はむなしく色褪せ、私はおばあさんになってしまったわ」と解説しています。

そんな解説を読む度に、もう悔しくて悔しくて、とても悲しい気持ちにさせられてしまうのです。
なぜなら、そもそも小野小町は、我が国を代表する美人で、美人の代名詞とも呼ばれる女性です。
そんな美しい女性が、「私はおばあさんになってしまったわ」と愚痴を言っていて、そのどこがどう素晴らしい歌になるのでしょうか。』

『けれど、その小町を「美人だ!」と言ったのは、小町が生きていた時代の人ではなくて、小町が亡くなって200年も経った後の時代の、藤原定家です。
ですから藤原定家は、小町に会ってはいないのです。
会ってもいないのに、ではどうして藤原定家が小町を美人だと騒ぎ出したのかと言うと、小町の「この歌」が、あまりにも美しかったからです。

けれど、この歌の意味が「世の中に降っている雨をいたずらに眺めている間に、私はおばあちゃんになっちゃったわ」という程度の意味なら、ただの年寄りの愚痴です。
そのどこがどう、美人なのでしょうか。

実は、この歌で大事なのは「花」です。
この時代、「花」といえば、「桜花」を意味します。
桜花は、「色は変わりません」。
桜花は、色は変わらず、そのままの色で散っていきます。
紫陽花(あじさい)とは違うのです。

雨が降ったら、桜花は散ります。
見ている前で、はらはらと散ります。それが桜吹雪です。

小町は「花の色はうつりにけりな」と詠んでいます。
それは桜花の状態が移って行く、つまり散っていくことを意味します。
なぜ散るのかといえば、「世に降る」つまり、雨が降っているからで、それが「世に降る」で、時を経てという意味にもかかっています。
その雨を、「眺めせしまに(眺めている間に)」というのです。

雨が降っている。
小町の見ている前で、雨に打たれて桜の花びらが散っていく。
けれど、桜花は、色は変わりません。
色が変わらずに散るのが桜花です。

雨が降って散る桜もあるけれど、散らずにまだ咲いている桜花も、あるのです。
そして小町は、この歌のどこにも、「花が散った」とは描いていません。
つまり小町は、「私はまだ散っていないわよ」と歌っているのです。

この歌は、小町晩年の作と言われています。
つまり、92歳まで生きた小町の晩年ですから、70代か80代です。
当時の平均寿命は、40歳前後といわれていますから、もうしわけないけれど、その時代の70~80歳代の女性というのは、最早、老境の婦人というよりも、もはや妖怪の世界の住人といえる年代だったかもしれません。

そんな歳を召された小町が、「私、まだ散っていないわよ」、つまりもっというなら、「私、まだまだ燃えるような恋がしたいわ」と詠んでいるのです。
亡くなられた金さん、銀さんくらいの方が、「私、まだまだ燃えるような恋がしたいわ」と詠んでいることを想像してみてください。それって、ものすごく可愛いし、素敵だって思いませんか?

いくつになっても、恋する情熱は、女性を(男性もですが)輝かせます。
そしていくつになっても、老境に至ってもなお、恋する情熱を失わない、若々しい心を失わない小町をして、紀貫之は、小町を絶世の心の美女と讃えたのです。
そして百人一首の選者の藤原定家も、この歌を、なんとヒトケタの9番歌にもってきているのです。
これが日本の心です。

世界三大美女といえば、クレオパトラに楊貴妃に、トロイヤ戦争のヘレネです。
三人とも傾城、傾国の美女です。
つまり、その美しさ故に、国を城を滅ぼしてしまった、そういう女性たちです。

けれど小町は、心の美女です。
そういう外見よりも、人間としての内面を、愛し大切にするという、これが日本文化の大きな特徴です。
そしてそれを象徴しているからこそ、この小町の歌は、名歌とされているのです。』




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ブルームーンが、こちらの絵と和歌に引き合わせてくださったかのようです✌️✨

小町がずーっとお慕いしていたやんごとなき君。
その方は、深草天皇だと私は思います(^-^)



⬆︎をお読みにならばわかりますが、それが天皇になられる方の絶大な魅力であるのだとんかります。