強固な無神論者兼唯物主義者は「死」に対してどの様に立ち向かうのだろう? | まぁ、こんなもんでえぇんとちゃう?

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人は死ぬ。


これは誰であれ絶対の真理である。


絶対に外れない占いでもある(期間を限定しなければ)。


自分はこれまで愛する人達を送ってきたが、それは心理的或いは物理的繋がりが強ければ強いほど、その際に感じるストレスは大きかったと思う。


愛する大切な人の肉体が、その機能に限界を見せ始めた時、医療を代表とする物質的な援助がその効果を果たせなくなる事が明らかとなった時、多くの人は人間の力以上のものについて思いを寄せるのではなかろうか。


或いは生と死の境界に愛する人が居る時、生きていて欲しいと祈るのではなかろうか。


自分は無神論者ではなく、唯物主義者でもない為、その様な際には神や仏と呼ばれる存在に祈った。


死が避けられない際にも、その過程で苦しみを出来るだけ経験しないように、矢張り祈った。


自分の無力さを知る時でもあった。


だが祈るべき対象が無く、信仰を否定する人は、祈る事は無いのだろうか?


また死んだら無になると言う事は、見送った愛する人に対して言葉を掛けたり祈ったりする事は無意味だから全く行なわないのだろうか?


少々興味がある点ではある。


そして何よりも、自分自身に死が迫った時、自分以上の何かに縋ろうとする事は無いのだろうか?


エリザベス・キューブラー・ロス博士に拠れば、人は自分の死に対してあるパターンを示す事が多いと言う。


「1.否認、2.怒り、3.取引、4.抑うつ、5.受容」の五段階がそのパターンであると言う。


無神論者の場合、怒りや取引は神や精霊で無ければ、何に対して行なわれるのであろうか?


家族や医療従事者をその対象とするのか?


ロス博士の有名な著作「死の瞬間」を昔読んだ筈なのだが、細部はすっかり忘れてしまった。


「我こそは唯物主義者でありかつ強固な無神論者そのものである」という方の実際について、聞いてみたいものである。