キリスト教の元であるユダヤ教の聖典、旧約聖書では「神はそれらの姿に似せて人を形作った」とあるそうだ。(原典未確認)
そしてイシュラームの聖典コーランにも「神を複数形で記している」箇所があると言う。
況や、古代ギリシャ時代の神々、ローマ神話の神達、ヒンドゥーの神々や仏教の釈迦に如来に菩薩、地蔵など、そして我が国の八百万の神々、北欧のオーディンとワルキューレを筆頭とする神々、民族における精霊信仰と先祖信仰等等。
ここで聞き齧りの薀蓄。
無限の事象であり時に「神」とも呼ばれる存在は、有限の世界において一瞬の生を終わる人間にはその存在の全貌を把握する事はできない。
それは謂わば、盲目の人間が「象」を触れる事で、様々な印象を持つが如しだという。
鼻に触れた者は「ホースの様だ」と感じ、耳に触れた者は「紙の様だ」、足に触れれば「丸太の様」、胴体に触れれば「壁の様」、尾に触れれば「ロープの様」、触れる事が出来なければ「象などというものは居ない」と感じる。
それぞれの言って居る事は決して間違いでは無いが、象という存在を把握しているとは言えない。
「触れただけ」で、「象」という存在の全体像を把握する事はできない。
人間はその様、自分の限られた知覚によって様々な神の面を認識している。
或いはその存在が無いとも認識する。
それらはいずれも間違いではないが、神の全貌を理解する事は人間には不可能である。
(注;以上は我楽者による聞き齧りのうろ覚えに拠る極めてあやふやな根拠に基づかない自分なりの考えでしかない。(笑) どのように考えるかと言う事は、全くもって個人の自由であり、その根拠が明確であろうがそうでなかろうが、自分にとってはこれが最も受け容れ易い考え方であるというだけの事である。)