親父の帰宅

 

09/09/06 01:20

 

無事、葬儀も終わり、親父は自分の部屋に帰ってきました。でも、もう何も話してはくれません。

8月28日の朝6時55分、親父は永遠の眠りにつきました。本当にゆっくりゆっくりと静かに燃え尽きていく感じで逝きました。

前日の夕方、親父は苦しそうに浅い呼吸を繰り返していました。手を握ると数回握り返してくれました。苦しそうな様子を見ているのが辛く、先生と看護婦さんに後はお願いしますと挨拶して帰宅しました。今思えば、あれが親父との最後のお別れだったような気がします。

深夜3時に病院から呼び出しの電話がありました。タクシーで病院へ行くと親父は酸素マスクを付けてゆっくりと呼吸していました。時々心拍数が下がってくると、親父に呼びかけたり、手を握ったりしました。すると、また心拍数が上がります。こんなことを6時半ごろまで繰り返しました。

看護婦さんから、もうしばらくこのような状態が続くから、下で横になって休んでいてくださいと言われ、外で煙草を1本ふかして、待合室の長椅子に横になった途端、看護婦さんが駆け降りてきました。危ないのですぐ来て下さいとのことでした。

親父のところに駆けつけると心拍数はもう30以下でした。呼吸もすごくゆっくりになって、時々呼吸を止めてしまいます。そのたびに、呼びかけたり、手をさすったりしました。でも、いくら呼びかけても、少しずつ呼吸の回数が減っていきました。そして、しばらくして呼吸することを止めました。痩せこけて動脈の動きが見えました。呼吸を止めても動脈は動いていましたが、それもゆっくりと、本当にゆっくりと停止しました。穏やかな顔でした。

俺が親父のそばを離れてすぐに心拍数の低下が始まったそうです。やはり、息子さんでなければだめね、と言ってくれました。深夜3時に看護婦さんが私に呼び出しの電話をかけたときも、親父の心拍数が上がったそうです。長年看護師をやっていて、何度もこのような不思議なことを経験したと言います。


親父、長い間病気と闘ったよね。少し回復してはまた高熱が出て体力を奪って行ったんだよね。でも、動ける頃は毎日リハビリを頑張ったよね。休日は自分でベッドの上でいろいろなリハビリ運動を工夫してやっていたよね。秋には元気になるって言っていたよね。元気になったら、川で魚釣りをすると言ったよね。三角定規や7色の色鉛筆を持って来いと言っていたよね。言葉を忘れるから、国語辞書を持って来いと言われて、本屋でいちばん字の大きい辞書を買って持っていったよね。ほんとによく頑張ったよね。弱音や愚痴なんて、なんにも言わなかったよね。痛いとか苦しいとか、何も言わなかったよね。

この3月に転院する時、市立病院の看護婦さんたちが泣いて見送ってくれたよね。太平台病院の看護婦さんたちも親父のためにいっぱい泣いてくれたんだよ。師長さんが、親父からいっぱい癒してもらったって言っていたよ。師長さんは泣きながら親父のことをほめてくれていたよ。どこの病院でも親父はいい人間関係を作っていたんだね。偉いな、親父。

戦争で10年間も青春を潰され、そのうちの3年間は地獄のシベリア抑留生活を生き抜いたんだよね。もう戦友はみんな死んじゃったんだよね。復員してからもソビエトの共産主義者と疑われて、就職もなかなかできなくて苦労したんだよね。

おふくろのことをずっと大事にしてくれたよね。俺には過ぎた女房だっていつも言っていたよね。男は女房に看取られて死ぬもんだっていつも俺に言っていたよね。でも、親父がおふくろのことを大事に大事に看取ってくれたんだよね。

ありがとう、親父。天国でおふくろと再開してまたラブラブな時間を過ごしてね。本当にお疲れさまでした。

俺は親父にガンの告知をしなかった。ずっと親父をだましていたような気がしています。

まだ時々涙が出ます。