たまたま異国の地で出会った人がご近所さんだった。母校が一緒だった。誕生日が同じだった。そんな珍しい事もある。

世界は広いね。

でも英語だと真逆。

IT'S A SMALL WORLD.

世界は狭い。

言葉は文化。歴史。思想。
やはり二カ国語以上身につけていたほうが人生面白いよ。

なんとももう思わないが。

小学校入学の際、会った事もない、会う事も許されない祖父からランドセルが贈られれてきた。送られてくるという事なので必然的に両親との接触はあるのだろう。顔は知らないのでノッペラボウだ。でもなんとなく嬉しかった。というのもそれは明らかに良い品だったからだ。子供でも分かる。自分は大切に思われているのだろうと自覚し、誇らしかった。

一年の時には他の皆のよりもずっと重かったのを覚えている。上質というのはこういうものなのかと思った。これから六年間つきあってくれるという重みを感じた。

中学年で差に気づいた。全くよれていなかった。

高学年になった。もう使えなくなったとランドセルを処分してしまう同級生が増えた中、私は入学当時から同じのを毎日背負っていた。当たり前だ。特に手入れなどした覚えもないのにるで新品同様、どこも壊れずにピカピカだったのだから。様々なカバンを皆が代用にしているのが個性的に見え、うらやましいとおもった事もあったが、基本わたしは今もかわらず合理主義なので、機能性の高いランドセルを好んで使い続けた。卒業の日まで使い続けた。そして最後にそれはむしろ珍しく、美徳な事と教えられた。

ピンとはこなかったが大切に閉まった。もう使うことはないのだ。贈ってくれた祖父に報告したかったが伝える術もない。それは少し残念だったが、そんな連絡も取り合えない関係は大人同士が築いたものなのだから子供の私がどう願おうが無力であろうと思った。我ながらドライな子供だった。ランドセルはたまには磨いてやりたかったがこれから移住する。この家に置いておけば保管されると聞かされた。大切にしていた本や、大のお気に入りだった勉強机と共に置いていった。しばしの別れだ。必ず再会できる。

10年後、帰国したときには全て処分されていた。むりやり他人の家へ託された愛犬も病死していた。

何も感じなかったが、それは無気力というものだった。それからの一年間は空白である。やっとまた自分の人生を動かしだしたときに振り返った。その時学んだ教訓は

モノなんてどうでもよい。
執着するな。痛いだけだ。

収集癖のある人の話を聞くとうんざりする。思い出の詰まった大切な物を披露する人は無神経で馬鹿なやつだと思う。時を止めようとしている間抜けな行為だ。

寂しく感じるときもある。でも良かったことは、、、

どんな物でも失ったり壊れたりする、それを覚悟できる体質に早々となれた。最初から終わりを意識しつつ大切にできる。そしてたとえ他人に奪われ壊されたとしても、悪気さえなければ喪失感もなく笑って流せる。