作家の本谷有紀子さんが
たしか こう
お話されてました。
「瞑想とか
ちょっと興味あるからやってみようかなって
友達に話してみたら
『やめなやめな、
瞑想なんて始めたら
煩悩がなくなって、小説 書けなくなるよ』
って言われてさ。
瞑想って、そんなにすごいんだねぇ。
書くことの原動力って
“煩悩”みたいなとこあるからさ。
だから 瞑想(するの)やめたの。」
たしか
こんな感じの話を
テレビで語ってらしたのです。
そうなのよねぇ。
ヨガを始めたらば
瞑想する機会が多くなり。
そしたら たしかに、ワタクシまでも。
なんだかもう
みんなどうでもよくなっちゃって。
なんだかもう
フワァ~って放たれちゃったようで。
たとえば 今まで
「アイツめ、絶対に許さねぇからなっ!」
なんて
一方的に理不尽な目に合わされたりしたら
どうしようもなく鼻息荒げて
溢れ出る怒りに プルプル震え出すことも
幾度かあったのにさ。
(いい歳した大人が 実にお恥ずかしいコト)
それが、なんだかもう
みんな どうでもいいわぁーって。
だって いつか
私も死ぬけど あんたも死ぬよね、
どんなことにも終わりがあるよね、なんて。
件のアイツのことさえも
もうしょうがないわって、
こんなくだらぬ関わりだって
時に刹那なことなのよって、
するする許せる気持ちになってきたりして。
あんなに好きだった
文章を綴ることからも
すぅーっと離れてしまう有り様。
瞑想、恐るべし。
そうか、これが“瞑想”なのか。
「嗚呼 ワタクシの煩悩よ、いずこへ?」
そんなことを
うすぼんやりと思いつつ、幾月かを過ごして。
「が、しかし。 」でございますよ。
先日、南海キャンディーズの山ちゃんが
「僕が 幸せになったなら
この闇深い芸風がどうなるのか、
ファンがどう思うのか、
それを思うと 怖くてしかたなかったんだ」と
結婚会見後の深夜ラジオで
号泣しながら語っていたけれど。
それについても
マツコ・デラックスさんや
伊集院光さんが
「山ちゃんの抱える闇は、
そんな簡単なものじゃないから大丈夫よ。」
だなんて、
なんとも深くて 実に優しいエールを
送っていましたが。
・・・そうなのよねぇ。
きっと、そうなのよねぇ。
所詮、凡夫なワタクシですもの、
そりゃ そうなのよねぇ。
そんなに簡単に
煩悩が消えるかーい!
まだまだ修行が足りんわーい!
これぞまさに
百八煩悩、無限大じゃーい!
久々に
ハンカチの端っこをキリリと噛み、
ひっぱりながら
「キィーッ!!!」っと言って
悔しがってしまうほどの出来事に遭遇し。
そこで サッといなして
やり過ごせるかと思いきや。
結局、フゴーッフゴーッと
荒い鼻息を見事なまでに噴出しつつ
「くうぅっ、許さねぇからなっっ!」と
心の中で啖呵を切ったなら、
わが煩悩の存在を
しっかと思い知るのです。
こうなりゃ
消えぬ煩悩と共に生きるのみ。
願わくば
この荒い鼻息が
ふいごのように
熱き炎を さらにメラメラと燃え盛らせて。
たとえば その炎が
書くだとか なんとか、
そんな行動の
熱き原動力となってくれればなぁと
思うのですが、ねぇ。
そして懲りずに
明日もヨガクラスに赴くのです。