スマートフォンを家に忘れて 
出勤してしまいました。

気付いたときには
「うわぁ~!」と
頭まっ白になりましたが
今さらどうしようもないと
すぐに諦め、
スマートフォンのない1日を過ごし。

そうだよ、
昔は こんな暮らしだったはず、と。

連絡は とれません。
どうしても!という連絡なら
きっとどうにかして
あらゆる手段をとるのだろうし、
そこまでのガッツが必要ないと思うなら
もともと 
今すぐに!ほどの内容ではなく
そのくらいの価値の連絡事項ということで。

メールも 失礼ながら
いつもすぐに返信するタイプじゃないので
そこは すでにみんな理解しているし。
もとから そんなにメールもこないしね。
LINEもTwitterもしてないし。
写真だって 撮らないし。

仕事の連絡は 
付箋でよし。
伝言でよし。
問題なし。

いつも一冊、本を持ち歩いているから
暇つぶしや 隙間時間も 退屈知らずで。

調べたいことも、
わからない道も、
誰かに聞いたら 教えてくれたし。
みんな優しい、ありがたいことです。

唯一、あぁ 困ったなと思ったのは
ちょこちょこ
ブログが書けないことくらい。
それでも
ひらめいたことは 手帳に書けば良いわけで。


二十歳の頃に
「IDO」の黒くて太くて
アンテナがビョーンと伸びる
箱形の携帯電話を持ち。
それが 初めて。

そうそう、
「シモシモ~?」の肩掛け型よりは
進化してるタイプの。
あの頃から 誰もが
「電話を持ち歩く」という生活になって。

それから
ますます 進化を遂げて
いまや スマートフォン、
時計みたいに腕に巻いたり
眼鏡みたいだったり
声だけで すべてを動かせたりと。

それは昔、
トム・クルーズの映画で観たような
夢みたいな 嘘みたいな
ハイパー!なテクノロジーの
あれやこれやが
今の暮らしには 普通にあるわけで。

本当に
すごい時代になりました。
なりました、が。

それでも
持ってなくても 平気だったし。
もともと こんなものだと思ったら
不便なことは 
不便ではないのかもしれないな。


日本人は どうやら
手間ひまかける ということに、
たとえ不便でも めんどうでも
丁寧にひとつひとつを行うということに、
「美学」を見出だせるものだから
あまりに 便利に手軽に
合理的に ことが進むのは
なんとなく
「これでいいのかしら?」と
自問自答してしまうところがあり。

便利になることが
悪いことではないのだとわかっているけれど
なんとなく
先人の築いてきたものを
踏みにじるのではないかと
うっすら 罪悪感を持つような。

そう 思いがちなのは
昭和な 我々世代だけかしら。
生まれた時から 携帯が、スマホがあって
いつでもどこでも動画を観ながら育っていく
そんな世代には
はじめから 当たり前のことで。

進化して 便利になることも嬉しいけれど
もしも 便利ではなくなったとしても
手間がかかることにも 喜びを見出だせる。

どっちも嬉しく楽しいことです。

スマホから ポチッと注文して取り寄せた
なかなか行けない 遠い場所にある
気に入りの窯元の小皿に、
毎日、
においがどうにかならないものかと思いつつ
手を入れて
まるで 育てているような気持ちの 
大事な小さな ぬか床から
大根を出して のせてみる。

これが 我が家の
「便利と不便の 融合」

トム・クルーズと先人の
がっちり握手、みたいなものです。