【生麦事件から薩英戦争、薩長同盟、明治維新期の日本の本当の歴史】
日本人は、本当の日本の歴史および本当の世界の歴史を知りません。教科書に掲載され、一般に流布している歴史の情報は、フェイク情報です。そのため、日本人は、今何が起こっているのか、自分たちが何者なのか、今後何が起こるのか、が分かりません。
今何が起こっているのか、自分たちが何者なのか、今後何が起こるのか、を知るためには、本当の日本の歴史および本当の世界の歴史を知ることが必要です。
事実を知ることが、自由への第一歩です。
1. 生麦事件
生麦事件は、幕末の1862年に生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)で起こりました。
4人の騎馬のイギリス人が、江戸から薩摩に向かう藩政の最高指導者・島津久光(薩摩藩主・島津茂久の父)の大名行列の行進を乱し、護衛の薩摩藩士に切り殺された事件です。

当時、大名行列が通る際には、日本の町人や農民は土下座をして行列が通過するまで待つことになっていました。しかしながら、4人のイギリス人は、薩摩藩士の制止を無視し、騎乗のまま島津久光の乗る籠に向かって進みました。
島津久光に危険が及ぶと判断した護衛の薩摩藩士は、4人の騎馬のイギリス人に切りかかりました。薩摩藩の剣法は、示現流と呼ばれる殺人剣法です。薩摩藩士は、イギリス人の1人を殺害し、2人に重傷を負わせました。


[生麦事件当時の生麦村]
この生麦事件がイギリス本国に伝えられると、イギリス政府は激昂します。イギリスは、幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンド(幕府年間予算の3分の1を超える額)を要求、さらに、薩摩藩には犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求しました。
イギリスは、幕府に圧力を加えるため、イギリス海軍の艦隊を横浜に派遣、交渉の行方次第によっては、艦隊を江戸湾に進入させ、江戸城へ艦砲射撃を加える構えでした。
1842年のアヘン戦争で、火力に勝るイギリスが大国の清を屈服させたことを知る幕府は、イギリスの要求をあっさり受け入れ、謝罪と賠償金の支払いに応じました。

[アヘン戦争におけるイギリス艦隊の砲撃]
2. 薩英戦争
そこで、次に、イギリスは、艦隊を鹿児島湾に派遣し、薩摩藩に圧力を加えました。イギリスは、薩摩藩に対し、要求が受け入れられない場合、武力行使に出ると通告しました。
しかしながら、薩摩藩は、「生麦事件において、イギリス人たちは外国法が適用される居留地を離れ、居留地外で行動していたのであり、居留地外では日本の法律が適用され、大名行列を乱した者は切り捨て御免である」として、イギリスの要求を拒否しました。
その結果、イギリス艦隊が鹿児島城下に対して艦砲射撃を行い、1863年、薩英戦争が勃発しました。
旗艦「ユーライアラス」に率いられた7隻の艦隊が容赦ない艦砲射撃を行い、鹿児島城下は炎に包まれます。鹿児島城下の工場地帯は完全に破壊されました。

[鹿児島湾におけるイギリス艦隊の航跡図]

[イギリス艦隊による鹿児島砲撃と炎上する鹿児島城下]
一方、薩摩藩側も果敢に反撃しました。鹿児島湾に面した砲台から自前の大砲でイギリス艦隊へ向け砲撃を実行。これが、予想外の損傷をイギリス艦隊に与えることになります。
薩摩側の砲撃により、イギリス艦隊の司令官が負傷、旗艦の艦長・副長が戦死。イギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人に及びました。

[鹿児島湾に面した薩摩藩の砲台跡]
しかしながら、薩摩側の砲台はイギリス艦隊により完全に破壊され、鹿児島城下は炎上、戦争全体としては、イギリス側の勝利に終わります。
その結果、薩摩藩は、賠償金の支払いを承諾。幕府から賠償金に相当する金額を借用し、支払いを実行しました。ただし、犯人は逃亡中として、引き渡しには応じませんでした。
3. 薩長同盟
薩英戦争の結果、イギリスは、薩摩藩の侍たちの死を恐れぬ勇敢な戦いぶりに感銘を受けることになります。薩摩藩の侍たちは、目の前のイギリス艦隊から雨あられのように飛んでくる砲弾をものともせず、砲台から砲撃を続けました。
あっさり謝罪と賠償金支払いに応じた腰抜けの江戸幕府に対し、薩摩藩の毅然とした戦いぶりがイギリスの政府および外交官に認識されることになります。
そのため、薩英戦争以降、イギリスは、「薩摩に近代兵器を供与し、武装させれば、江戸幕府を倒せるのではないか」と考え始めます。イギリスは、「薩摩は使えるな」と考え始めます。

[イギリスとの交渉にあたった薩摩藩士]
一方、薩摩藩は、イギリス軍の近代兵器の火力の洗礼を受け、軍事力ではとても欧米にかなわないことを思い知ります。
実際、薩摩藩は、薩英戦争のあとのイギリスとの交渉の過程で、イギリスに対し、イギリスの軍艦の購入を申し入れました。これに対し、イギリスは、薩摩藩への軍艦売却の斡旋を承諾しました。
一方、翌1864年、今度は長州藩が、なんとイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国艦隊相手に下関戦争を起こしました。長州藩は、藩の軍艦を撃沈され、砲台を破壊され、上陸した四か国の陸戦隊により、民家を焼き払われ、砲台を占拠されることになります。
長州藩も、欧米の軍事力の強大さを思い知ることになります。

[下関戦争における四か国艦隊の艦砲射撃]

[長州藩の砲台を占拠する四か国の陸戦隊]
そこで、イギリスは、すっかり従順になった薩摩藩と長州藩に接近し、薩長同盟を結ばせ、倒幕へ向かわせることになります。
その際、陰で暗躍したのがイギリスの商社ジャーディン・マセソン商会です。実は、薩長同盟を実現させた坂本龍馬は、ジャーディン・マセソン商会の使いっ走りでした。ジャーディン・マセソン商会が代理人のトーマス・グラバーを通じて坂本龍馬に資金を提供し、倒幕活動を指示・支援したわけです。

[薩摩藩の西郷隆盛、ジャーディン・マセソン商会の使者・坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)]

[ジャーディン・マセソン商会創業者のウィリアム・ジャーディン(左)とジェームス・マセソン]
当時の日本人にとっては、初めて経験するイギリスの破壊工作でしたが、当時、イギリスは、世界中で同様のことを行っていました。ちなみに、現在も行っています。(例えば、ウクライナ)
ジャーディン・マセソン商会は、長年、清へ輸出するアヘンの取引も行っていました。
4. 薩長武装工作
薩摩・長州を使い幕府を倒すには、幕府を圧倒する近代兵器が必要です。イギリスは、最新式の兵器を格安で調達し、薩摩・長州に高額で売却することに成功します。
イギリスは、どうやって最新式の兵器を格安で仕入れたのでしょうか?。
当時、地球の反対側のアメリカでは、南北戦争(1861年ー1865年)が終わった直後でした。南北戦争では、アメリカが北部と南部に分かれ、親子・兄弟が敵になって殺し合いました。死傷者は、50万人に及び、第2次世界大戦のアメリカ死傷者数29万人を超えます。北部のシャーマン将軍は、南部の都市を焼き払い、略奪し、鉄道網を完全に破壊しました。


[南北戦争で使われたエインフィールド銃]
しかしながら、戦争が終わると大量の銃器は用無しです。これを、イギリスの商社が二束三文で買い入れ、イギリス商船で太平洋を横断輸送、薩摩と長州に最新式の銃器として高額で売りつけました。そこで、中心的役割を果たしたのが、またしてもジャーディン・マセソン商会の代理人トーマス・グラバーです。
イギリス商社は、莫大な利益を得るとともに、近代兵器による薩長武装に成功しました。

[武器商人トーマス・グラバー、彼は日本の"近代化"に貢献したとして明治政府から勲二等旭日章の叙勲を受けています]
それ以降の戊辰戦争(1868年)の勝敗は、その時点で決していました。旧式の武器および白刃で戦う幕府軍に勝ち目はありませんでした。

[戊辰戦争における薩摩・長州官軍による一斉射撃]
ちなみに、幕府側にはフランスがつき、フランスが幕府に戦術や築城の指導を行っていました。
ただし、イギリスとフランスは、裏で通じていた可能性があります。少なくとも、イギリス商人とフランス商人は通じていたでしょう。フランスから幕府に関する貴重な軍事情報がイギリスに伝えられていたと思われます。
5. 薩長藩閥明治政府=イギリスの傀儡政府
何から何までイギリスに支援された薩摩・長州を主力とする討幕軍が幕府軍を倒し、明治政府が確立します。
その結果、当然ですが、明治政府は、イギリスの強い影響力を受けることになります。明治政府では、薩摩藩・長州藩出身者が要職を占め、藩閥政治が行われることになります。何のことはない、藩閥政府=イギリスの傀儡政府です。
とくに明治政府の外交・軍事政策はイギリスの指示に忠実に従うことになります。
このあと、明治政府は、イギリスの指示に従い、日清・日露戦争へと突き進みましたが、それは、ロシアの南下を防ぎ、華中を勢力圏とするイギリスの権益を守るためでした。日本兵は、肉弾として利用されたわけです。

[東京都千代田区一番町のイギリス大使館]

[明治天皇と枢密院会議]
ちなみに、明治天皇は京都御所から東京の皇居に居所を移すことになりましたが、イギリス大使館は、その皇居を見下ろす皇居西側の高台の上に設けられました。イギリスと天皇・明治政府との力関係が、イギリス大使館と皇居の位置関係に現れています。
明治維新以降、現在に至るまで、日本は米英の奴隷国家として、支配を受け続けることになります。
以上が、この時代の日本の本当の歴史です。将来、日本が欧米の支配を脱したあかつきには、ここに記載した内容が教科書に掲載されることになるでしょう。
以上
註記: 上記の見解は、私個人のものであり、いかなる団体あるいは政党の見解をも反映するものではありません。
私自身は、いずれの政党・政治団体ならびに宗教団体にも所属していません。あくまでも一人の市民として、個人として発言しています。民主主義と平和を実現するために発言しています。
追記: もし私の情報発信に賛同して下さる方がいらっしゃいましたら、下記口座へ寄付をしていただけましたら幸いです。より効果的かつ大規模な情報発信が可能となります。
みずほ銀行
店番号:590(浜松支店)
預金種目:普通
口座番号:3011469
口座名:マツザキ ノブアキ
日本人は、本当の日本の歴史および本当の世界の歴史を知りません。教科書に掲載され、一般に流布している歴史の情報は、フェイク情報です。そのため、日本人は、今何が起こっているのか、自分たちが何者なのか、今後何が起こるのか、が分かりません。
今何が起こっているのか、自分たちが何者なのか、今後何が起こるのか、を知るためには、本当の日本の歴史および本当の世界の歴史を知ることが必要です。
事実を知ることが、自由への第一歩です。
1. 生麦事件
生麦事件は、幕末の1862年に生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)で起こりました。
4人の騎馬のイギリス人が、江戸から薩摩に向かう藩政の最高指導者・島津久光(薩摩藩主・島津茂久の父)の大名行列の行進を乱し、護衛の薩摩藩士に切り殺された事件です。

当時、大名行列が通る際には、日本の町人や農民は土下座をして行列が通過するまで待つことになっていました。しかしながら、4人のイギリス人は、薩摩藩士の制止を無視し、騎乗のまま島津久光の乗る籠に向かって進みました。
島津久光に危険が及ぶと判断した護衛の薩摩藩士は、4人の騎馬のイギリス人に切りかかりました。薩摩藩の剣法は、示現流と呼ばれる殺人剣法です。薩摩藩士は、イギリス人の1人を殺害し、2人に重傷を負わせました。


[生麦事件当時の生麦村]
この生麦事件がイギリス本国に伝えられると、イギリス政府は激昂します。イギリスは、幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンド(幕府年間予算の3分の1を超える額)を要求、さらに、薩摩藩には犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求しました。
イギリスは、幕府に圧力を加えるため、イギリス海軍の艦隊を横浜に派遣、交渉の行方次第によっては、艦隊を江戸湾に進入させ、江戸城へ艦砲射撃を加える構えでした。
1842年のアヘン戦争で、火力に勝るイギリスが大国の清を屈服させたことを知る幕府は、イギリスの要求をあっさり受け入れ、謝罪と賠償金の支払いに応じました。

[アヘン戦争におけるイギリス艦隊の砲撃]
2. 薩英戦争
そこで、次に、イギリスは、艦隊を鹿児島湾に派遣し、薩摩藩に圧力を加えました。イギリスは、薩摩藩に対し、要求が受け入れられない場合、武力行使に出ると通告しました。
しかしながら、薩摩藩は、「生麦事件において、イギリス人たちは外国法が適用される居留地を離れ、居留地外で行動していたのであり、居留地外では日本の法律が適用され、大名行列を乱した者は切り捨て御免である」として、イギリスの要求を拒否しました。
その結果、イギリス艦隊が鹿児島城下に対して艦砲射撃を行い、1863年、薩英戦争が勃発しました。
旗艦「ユーライアラス」に率いられた7隻の艦隊が容赦ない艦砲射撃を行い、鹿児島城下は炎に包まれます。鹿児島城下の工場地帯は完全に破壊されました。

[鹿児島湾におけるイギリス艦隊の航跡図]

[イギリス艦隊による鹿児島砲撃と炎上する鹿児島城下]
一方、薩摩藩側も果敢に反撃しました。鹿児島湾に面した砲台から自前の大砲でイギリス艦隊へ向け砲撃を実行。これが、予想外の損傷をイギリス艦隊に与えることになります。
薩摩側の砲撃により、イギリス艦隊の司令官が負傷、旗艦の艦長・副長が戦死。イギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人に及びました。

[鹿児島湾に面した薩摩藩の砲台跡]
しかしながら、薩摩側の砲台はイギリス艦隊により完全に破壊され、鹿児島城下は炎上、戦争全体としては、イギリス側の勝利に終わります。
その結果、薩摩藩は、賠償金の支払いを承諾。幕府から賠償金に相当する金額を借用し、支払いを実行しました。ただし、犯人は逃亡中として、引き渡しには応じませんでした。
3. 薩長同盟
薩英戦争の結果、イギリスは、薩摩藩の侍たちの死を恐れぬ勇敢な戦いぶりに感銘を受けることになります。薩摩藩の侍たちは、目の前のイギリス艦隊から雨あられのように飛んでくる砲弾をものともせず、砲台から砲撃を続けました。
あっさり謝罪と賠償金支払いに応じた腰抜けの江戸幕府に対し、薩摩藩の毅然とした戦いぶりがイギリスの政府および外交官に認識されることになります。
そのため、薩英戦争以降、イギリスは、「薩摩に近代兵器を供与し、武装させれば、江戸幕府を倒せるのではないか」と考え始めます。イギリスは、「薩摩は使えるな」と考え始めます。

[イギリスとの交渉にあたった薩摩藩士]
一方、薩摩藩は、イギリス軍の近代兵器の火力の洗礼を受け、軍事力ではとても欧米にかなわないことを思い知ります。
実際、薩摩藩は、薩英戦争のあとのイギリスとの交渉の過程で、イギリスに対し、イギリスの軍艦の購入を申し入れました。これに対し、イギリスは、薩摩藩への軍艦売却の斡旋を承諾しました。
一方、翌1864年、今度は長州藩が、なんとイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国艦隊相手に下関戦争を起こしました。長州藩は、藩の軍艦を撃沈され、砲台を破壊され、上陸した四か国の陸戦隊により、民家を焼き払われ、砲台を占拠されることになります。
長州藩も、欧米の軍事力の強大さを思い知ることになります。

[下関戦争における四か国艦隊の艦砲射撃]

[長州藩の砲台を占拠する四か国の陸戦隊]
そこで、イギリスは、すっかり従順になった薩摩藩と長州藩に接近し、薩長同盟を結ばせ、倒幕へ向かわせることになります。
その際、陰で暗躍したのがイギリスの商社ジャーディン・マセソン商会です。実は、薩長同盟を実現させた坂本龍馬は、ジャーディン・マセソン商会の使いっ走りでした。ジャーディン・マセソン商会が代理人のトーマス・グラバーを通じて坂本龍馬に資金を提供し、倒幕活動を指示・支援したわけです。

[薩摩藩の西郷隆盛、ジャーディン・マセソン商会の使者・坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)]

[ジャーディン・マセソン商会創業者のウィリアム・ジャーディン(左)とジェームス・マセソン]
当時の日本人にとっては、初めて経験するイギリスの破壊工作でしたが、当時、イギリスは、世界中で同様のことを行っていました。ちなみに、現在も行っています。(例えば、ウクライナ)
ジャーディン・マセソン商会は、長年、清へ輸出するアヘンの取引も行っていました。
4. 薩長武装工作
薩摩・長州を使い幕府を倒すには、幕府を圧倒する近代兵器が必要です。イギリスは、最新式の兵器を格安で調達し、薩摩・長州に高額で売却することに成功します。
イギリスは、どうやって最新式の兵器を格安で仕入れたのでしょうか?。
当時、地球の反対側のアメリカでは、南北戦争(1861年ー1865年)が終わった直後でした。南北戦争では、アメリカが北部と南部に分かれ、親子・兄弟が敵になって殺し合いました。死傷者は、50万人に及び、第2次世界大戦のアメリカ死傷者数29万人を超えます。北部のシャーマン将軍は、南部の都市を焼き払い、略奪し、鉄道網を完全に破壊しました。


[南北戦争で使われたエインフィールド銃]
しかしながら、戦争が終わると大量の銃器は用無しです。これを、イギリスの商社が二束三文で買い入れ、イギリス商船で太平洋を横断輸送、薩摩と長州に最新式の銃器として高額で売りつけました。そこで、中心的役割を果たしたのが、またしてもジャーディン・マセソン商会の代理人トーマス・グラバーです。
イギリス商社は、莫大な利益を得るとともに、近代兵器による薩長武装に成功しました。

[武器商人トーマス・グラバー、彼は日本の"近代化"に貢献したとして明治政府から勲二等旭日章の叙勲を受けています]
それ以降の戊辰戦争(1868年)の勝敗は、その時点で決していました。旧式の武器および白刃で戦う幕府軍に勝ち目はありませんでした。

[戊辰戦争における薩摩・長州官軍による一斉射撃]
ちなみに、幕府側にはフランスがつき、フランスが幕府に戦術や築城の指導を行っていました。
ただし、イギリスとフランスは、裏で通じていた可能性があります。少なくとも、イギリス商人とフランス商人は通じていたでしょう。フランスから幕府に関する貴重な軍事情報がイギリスに伝えられていたと思われます。
5. 薩長藩閥明治政府=イギリスの傀儡政府
何から何までイギリスに支援された薩摩・長州を主力とする討幕軍が幕府軍を倒し、明治政府が確立します。
その結果、当然ですが、明治政府は、イギリスの強い影響力を受けることになります。明治政府では、薩摩藩・長州藩出身者が要職を占め、藩閥政治が行われることになります。何のことはない、藩閥政府=イギリスの傀儡政府です。
とくに明治政府の外交・軍事政策はイギリスの指示に忠実に従うことになります。
このあと、明治政府は、イギリスの指示に従い、日清・日露戦争へと突き進みましたが、それは、ロシアの南下を防ぎ、華中を勢力圏とするイギリスの権益を守るためでした。日本兵は、肉弾として利用されたわけです。

[東京都千代田区一番町のイギリス大使館]

[明治天皇と枢密院会議]
ちなみに、明治天皇は京都御所から東京の皇居に居所を移すことになりましたが、イギリス大使館は、その皇居を見下ろす皇居西側の高台の上に設けられました。イギリスと天皇・明治政府との力関係が、イギリス大使館と皇居の位置関係に現れています。
明治維新以降、現在に至るまで、日本は米英の奴隷国家として、支配を受け続けることになります。
以上が、この時代の日本の本当の歴史です。将来、日本が欧米の支配を脱したあかつきには、ここに記載した内容が教科書に掲載されることになるでしょう。
以上
註記: 上記の見解は、私個人のものであり、いかなる団体あるいは政党の見解をも反映するものではありません。
私自身は、いずれの政党・政治団体ならびに宗教団体にも所属していません。あくまでも一人の市民として、個人として発言しています。民主主義と平和を実現するために発言しています。
追記: もし私の情報発信に賛同して下さる方がいらっしゃいましたら、下記口座へ寄付をしていただけましたら幸いです。より効果的かつ大規模な情報発信が可能となります。
みずほ銀行
店番号:590(浜松支店)
預金種目:普通
口座番号:3011469
口座名:マツザキ ノブアキ