「さようなら」 わたしの 田中英光。 | しあんくれーる

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キイロイトリ☆ の ほっこり マイペースな 日記です。

愛媛県 今治市 (いまばり) の ゆるキャラ バリィさんのこと わが街 広島のこと 彼のこと など いろいろ 書いて いきたいと 思います。

復活組 ですが (爆)w 心機一転 よろしく たのまいね (お願いします。)

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君たちの 為にも お父さんは 一日も 早く 死んだ ほうが いゝ。さすがに 死後の 印税 だけは 全部 君たちに 残して ゆく 積り ですから。
(中略)

本当に 君たちを 生んで 済みません でした。できれば この 父親の 資格の ない バカな お父さんを 許して おくれ。

「子供たちに」
昭和24年
田中英光


六尺二十貫 ロス五輪 ボートの 日本代表 選手 田中英光。
太宰治を 敬愛すること 深く 太宰の 逝った 翌年 「文化の日」 の きょう 東京 三鷹 禅林寺の 太宰の 墓前にて 自裁。

私が 彼の 名前を 目にしたのは 16歳。太宰治に よって 文学の 毒に 魅せられ 太宰の お弟子さん ということで 彼に 興味を 惹かれ 作品に 触れたのが はじまり でした。

彼の 処女作で ある 「オリンポスの 果実」 は かの人が 「一文字 一文字を ピンセットで 摘まんで 食べちゃいたい」 と 形容 したほど 甘ずっぱいく また 若々しい 爽やかな 印象を 与えてくれる ものでした。

でも 私が 彼に 惹かれ たのは 「野狐 (やこ) 」 や 「さようなら」 の 作品に 触れたから。彼の 息づかいや 肌に 触れて いるような 錯覚すら 感じた 生々しい 作品 でした。

彼は ひたすら まっすぐで 純粋な 傷つき やすい 魂を 持ち 泥だらけに なりながら 戦中 戦後の 混沌とした 時代を 精一杯 生きようと していたと 思います。

昭和15年に 「オリンポスの 果実」 を 師と 仰ぐ 太宰の 推薦を 受け 『文學界』 に 連載 します。

彼自身も 早稲田の ボート クルーの 一員として オリンピックにも 参加 しました。実兄の 影響で 共産主義に 熱中。しかし 党の 方針に 合わず 離党 します。女性も 政治も まさに 片想いの 人生 でした。

そんな 不器用な 彼を 師の 太宰は 『お伽草子』 で 「カチカチ山」 の 狸 として 描いて います。
だからこそ 私は 無邪気で お人よしにも 見える 彼を 愛したのかも しれません。

彼の 眠る 東京 青山の 立山墓地へ 訪れたのは 今から 13年前の きょう。立派な お墓に 頼もしい 彼の 体躯を 見る 想いで 少し 切なく 感じた ことを 思い出します。

彼の 最後の 恋 彼が 夜の街で 出会った 敬子さんは 夜の 天使 でした。彼は その 敬子さんから 生まれて はじめて 肉体の 悦びを 知らされたと 救われたと 「野狐」 の中で 書いて います。

傷つきやすく 轉々 (てんてん) 悶々として 永遠の 野狐で あるらしい 彼。あの 時代に すぐさま とって 返して ひととき 彼を 慰め 得ることが できたら。

彼は 私に 男性は 哀しいものと 教えて くれました。彼を 慰め 得ることは もう 叶わない けれど 男性の 弱さ 哀しみを 知り かの人を 労り 慰め 寄り添って いきたいと 思います。


写真は 彼が 敬慕していた 太宰を 真似て 1949年 (昭和 24) 10月頃 写真家 林忠彦氏が 撮影したもの。 彼は 撮影中 かつて 林 氏の 撮った 太宰治 (昭和 23年に 自裁。) と 同様の シチュエーションで 撮って ほしいと 強く せがみました。

写真を 撮り終わると 彼は 「太宰さんと 同じような 写真を 撮って もらったから もう いつ 死んでも いいんだよ」 と いったと いいます。

この 撮影から 1週間か 10日後 自ら 命を 絶ちました。

彼は このとき 既に 死を 意識していたに 違い ありません。 健康的な 笑顔の 内は どのような 心中 だったので しょうか。

田中英光 氏の ご冥福を 心より お祈り 申しあげます。