この居酒屋「華ちゃん」は、10年ほど前の暇な折に私が書いた料理物語です。
料理研究家が暇な日にのみ開業する、居酒屋「華ちゃん」 今夜も開店時間となりました。
居酒屋「華ちゃん」は、遅ればせながら今夜は新春パーティーを開いています。大勢のお客さまが来店してくださり、狭い室内は蜂の巣をつついたような賑わいです
その大勢のお客さまの中に、ひときわ目を引く和服姿の美しい中年女性がいます。お久しぶりでございますと華ちゃんが挨拶に駆け寄ると、真莉さんも優しい笑顔で応えます
今から20年ほど前、真莉さんは名古屋の郊外にある、料亭の女将さんでした。当時はまだ30代半ばで、輝くような姿が印象的でした。もともとは箏曲(お琴)のお師匠さんの別邸だった建物を、ある不動産屋が買い取ったもので、風情のある建物が富裕層に受け、美しい女将さんがいる大人気料亭として様々な女性雑誌にも掲載されました
真莉さん☆ 「すっかりご無沙汰をしてしまっており、申し訳ございません。あの当時に華ちゃんにお世話になったご恩は決して忘れてはおりませんが、私は富沢を亡くしてからは、外に出るのも億劫になっておりました。この度、華ちゃんから新春パーティーのご案内状を頂いたので、富沢の思い出話などをしたいと思い、出かけて参りました
〜富沢さんは、真莉さんの事実上のご主人でしたが、富沢さんにはお子さんがあったらので2人は籍を入れていませんでした〜
まずは、お刺身替わりから召し上がってね。天然ブリのみぞれ和えです
真莉さんの最初の恋人は、真莉さんが女将さんを務めていたその料亭の不動産屋の社長さんでした。どういう縁で2人が知り合ったのか深くは知りませんが、華ちゃんがその料亭の料理長と友人だったことから、器のセッティングなどをアドバイスし、度々出入りしていたので真莉さんとは知り合いでした
パーティ会場とは別席に用意した、前菜の盛り合わせからおすすめします。居酒屋「華ちゃん」の名物料理、サツマイモのミルク煮も真莉さんもお出しします
日置さん(真莉さんの最初の恋人で不動産王)は、端正な顔立ちで業界では紳士と言われておりましたが、したたかな男性だったようです。ある日、華ちゃんが例のごとく、その料亭の料理長に女性が好む「盛り付け」をアドバイスしていた時、奥座敷で女性の悲鳴が聞こえてきたのでした。
何ごとかと、料理長と2人で駆けつけると、真莉さんが大柄な女性に髪を掴まれ、引きずり回されていたのです。料理長が2人の間に割り込み、事情を聞くと、その大柄な女性は不動産王の妻でした。
妻☆ 「夫が料亭を開業するからと土地を買ったことは知っていたわ。夫がオーナーで私も役員にしてやったと聞いていたから。もちろん、役員報酬も毎月もらっていたわよ。
ある時、その会社名がマリーロマンという名前だと雑誌で見て、何か変だと思ったのよ。女将が「真莉(マリ)」という名前だと書いてあるのを見て、なるほど!!!と思ったわ。マリさんとロマンスがあるということなのねと。
男ってバカよね。愛人を女将にし、着物や宝石を経費で処理し、妻も愛人も役員にして挙句の果てに愛人の名前を会社名にするなんて」
その時、真莉さんは、乱れた髪を素早く整え、引きちぎられた着物をその場に脱ぎ捨てると、長襦袢1枚で一目散に料亭を飛び出してタクシーに乗り、それっきり料亭には戻らなかったのです。その社長とは、その後すぐに別れたと聞きました。真莉さんは社長は独身だと聞いていたようです。
仕事用に買った着物は、一枚も持ち出さなかったといいます。豪華な着物は、数え切れないほどあったのですが。
それから数年後、華ちゃんは真莉さんから連絡を受け、真莉さんが新しく開業した割烹店で、料理や盛り付けなどのアドバイスを再開しました。
そしてまた数年後に、真莉さんは上場会社の重役だった富沢さんに出会ったのでした。富沢さんは真莉さんの店のお客さまだったようです。
真莉さん☆ 「富沢は若くして奥さまを亡くし、思春期の男の子を育てながら苦労をしておりました。
最初は同情から、身の廻りのお世話をしていたのですが、ある日、私の過去を人伝てに聞き、「よく耐えたね。すっぱりと過去を忘れられるものではないと思うが、君が一生懸命に生きている姿には、神々しいものがあるよ。僕には君が天女のように見える」と、褒められたの。
あの時の悲しさを我慢して我慢して、泣かずに生きてきたけれど、富沢の腕の中で涙が止まらなかったわ。その後、成人した子どもは海外で暮らし、私たちのこともよく理解してくれたけれど、籍は入れずに、ずっと恋人のまま過ごしたの」
合間には、華ちゃんはお得意の「魚の子とフキの煮物」や、得意料理のひとつである「蓮根の甘みそ炒め」を盛り分けておすすめします
真莉さん「その富沢さんが昨年の夏に急性の肝臓ガンで亡くなり、私は大きな哀しみの中にいました。富沢があの世に旅立った後、2週間くらい経った頃だと記憶していますが、私は彼の息子の真也さんから呼び出されました。親戚一同が集まって、お父さんの思い出話をするからというものでした
その席で、真也さんがみんなの前で言った言葉が衝撃的でした。
真也さん☆ 「父さんの遺言には、遺産の全ては真也に渡すが、真莉さんにはこの自宅を残してやって欲しいと書いてある。公正証書が父さんの書斎から見つかったのさ。しかし僕は全ての財産の半分を真莉さんに渡したいと考えている。
もちろん遺言通り、この自宅は真莉さんがもらうべきだ。僕は海外にいるし、これから先も日本に戻る予定はないのでこの家は必要はない。
高校生の時に実母を亡くした僕は思春期ということもあり、真莉さんはこの家には決して入らなかった。しかし僕が学校に行っている間に洗濯や掃除をしてくれただけでなく、弁当の準備や破れた僕の体操服を縫い、アイロンをかけ、父よりも僕を愛しているのではないかと思うほど僕たち親子に尽くしてくれたんだ。笑
誰に何を言われようとも僕の母さんは真莉さんだから、父さんの遺産は2人で分けるつもりだ」と
真莉さん☆「親戚一同は呆気に取られていましたが、長老者が大きくうなづいて拍手となり、真也さんの意見が通りました。真也さんに母さんと呼んでもらったのはこの日が初めてでした」
ここまで話をすると、真莉さんの目から大粒の涙が。果物を手に持つ華ちゃんも大泣きです。
迎えのタクシーに乗り込む真莉さんに、「華ちゃん」名物の、牛スジ土手煮をパック詰めして渡します。居酒屋「華ちゃん」の名物料理です
ありがとうございます。学会で帰国中の真也さんに食べてもらいますね。真也さんの大好物ですからと、真莉さんは満面の笑みです。
冷たい雨が降り続く夜ですが、華ちゃんの心には灯りがともります
新春パーティーは、まだまだ終わりそうにありません
〜このお話はフィクションであり、実在の人物及び団体とは、一切関係ありません〜





