この居酒屋「華ちゃん」は、10年ほど前に私が暇に任せて書いた物語です
料理研究家が、暇な日の夜にのみ開業する居酒屋「華ちゃん」 今夜も開店時間となりました
今夜のお客さまは、市内でフランス料理レストランを経営するシェフの則雄さん。則雄さんは以前は大手ホテルの総料理長でした
湯引きマグロとイカの盛り合わせからどうぞ。イカは粗塩とゆずで調味してあります。叩き梅も添えました
次のお料理はひとくちクロックムッシュです。ホワイトソースも手作りしました。華ちゃん居酒屋は、添加物などを使わない家庭の味です
15年前にお酒を絶った則雄さんは、お料理をたくさん召し上がります。中国風の前菜もたっぷり用意しておきました
則雄さん「その折には、大変なご心配とご迷惑をおかけしました。あの日のことは、悔やんでも悔やんでも悔やみきれません」
〜今から15年前、則雄さんはお酒を飲んで、大きな事件を起こしてしまったのです〜
華ちゃん☆ 「酒は百薬の長と言いますが、あの日のことは則雄さんにとっては、酒はまさに気狂い水でした。結婚前の女性の胸に噛み付くという傷害事件を起こしたのですからね」
悲痛な顔をして冷や汗を流しながら、うなだれる則雄さん
〜あの忌まわしい事件は、則雄さんが当時勤務していたホテルのレストランで起りました。被害者は、そのホテルのフランス料理レストランで、サービス係をしていた小夜子さん。ホテルの従業員たちが集まって、小夜子さんの婚約内祝いのパーティが開かれていた時のことでした
お酒も入り、会場がお祝いムードで盛り上がっていた折に、あろうことか則雄さんが突然に小夜子さんの胸に噛み付いたのです
小夜子さんの白いブラウスが、みるみるうちに真っ赤に染まりました。痛い痛いと胸を抱えて、悶え苦しむ小夜子さん
会場が騒然となったその時、偶然に居合わせた外科医が直ちに応急処置を済ませると、友人たちと共に素早く小夜子さんをタクシーに乗せて、病院に運び込みました。処置が速かったこともあり、怪我は軽く済みました〜
則雄さん☆ 「小夜子さんと僕は、愛人関係にありました。最初に僕を誘ったのは小夜子さんでした
フランス語でレシピを書き、ソースパン(ソース鍋)を大胆に扱う、僕のコックコート(白衣)姿に憧れたのだと言われました。僕には妻も子供もありましたが、全てを忘れて若い小夜子さんに溺れました
数ヶ月はお互いに燃えましたが、やがて彼女は冷めていきました。そしてある日、突然に彼女から別れを告げられたのです。別れの言葉は強烈でした
「ふん! あなたも所詮、ただのおじさんだったわ」
小夜子さんには結婚したい相手ができ、職場を去ると言われたのです。僕は目の前が真っ暗になりました
お話の合間に、華ちゃんは洋風料理を盛り合わせてお出しします
その日は僕も小夜子さんの婚約パーティに呼ばれていました。僕は小夜子さんに会えなくなるという悲しさと、これで良いのだというあきらめと、言いようのない怒りを抑えるために出されたワインをがぶ飲みしたのです
小夜子さんの胸が真っ赤に染まっていて、僕が噛み付いたのだという周りから非難の声で酔いから覚めました
何ということをしてしまったのか、どれほど悔やんでも後の祭りです
則雄さんの目から溢れる涙を見ながら、華ちゃんは涙を拭くための熱いおしぼりと、ごはんや汁をお出しします
事件は示談で済みましたが、僕はホテルを去りました。総料理長という職責を追われたのは当然のことです
小夜子さんの縁談は、破断になったと聞きました
僕には妻も思春期の子供もいて生活をしていかねばならず、僕が小さなレストランを開いたのを機に、実家に帰っていた妻は店を手伝うようになりました
頭を丸め、後悔と懺悔の日々を過ごす中で僕は、かのフランス料理界の巨匠、オーギュスト・エスコフィエ氏の著書「料理の手引き」を原書で何度も繰り返し読みました。夜もその著書を枕元に置いて眠りました
19世紀に生きたエスコフィエ氏が、単にフランス料理をレシピ体系化するだけではなく、シェフという職業に規律や節制という気風を持ち込み、その人格を育て、料理界に働く人々の社会的な地位向上にも貢献したことは、業界ではよく知られています
彼の知恵や弛まざる努力や苦悩を僕はその著書の中に見て、生きていく力をもらいました。本が与える力の大きさを、これほどまでに感じたことはありません。そしてたくさんの本の中から学んだものを少しずつ厨房で生かしたつもりです
さあさあ、デザートをどうぞ。カップケーキを焼いておきましたよ。食べきれない場合はご家族に持ち帰ってくださいね
則雄さん「先ごろ僕のレストランは、全国で最も人気が高いレストランのベスト5に選ばれました。先週には、フランス料理協会の最高研究者賞が与えられるとの連絡がありました
15年前にあのような事件を起こした僕に、この賞を受賞する資格があるのかと自問自答した時、僕が貰ったのではない、僕の全身に乗り移った、エスコフィエ氏の魂が貰ったのだと言い聞かせました
これからも先人の教えに従い、心身を整え、日々怠らず、この料理道を精進するつもりです」
華ちゃんは則雄さんに向かって、笑顔で小さな拍手を送ります
則雄さんを見送って外に出ると、冷たい雨が降りしきっていますが、庭の梅の木に蝋梅が香ります
「冬来たりなば、春遠からじ」とか申しますが、15年もの長きにわたって厳冬を過ごした則雄さんですから、そろそろ春が訪れても良い頃ではないかしら? と華ちゃんがひとり言をつぶやくと、
最近、居酒屋「華ちゃん」に住みついた、猫の「イチゴちゃん」がすり寄って来て、ニャオン〜 ニャオン〜とあいづちを打ちます。
〜このお話はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません〜




