料理研究家が、日曜日の夜にのみ営業する、居酒屋「華ちゃん」。
今夜のお客さまは、自動車関連会社の元会長だった三輪さんです。70歳代くらいになっておられるでしょうか。
三輪さんは、「男のエプロン一年生」クラスの受講生です。
こうした男性クラスは、ほとんどが企業や公務員を退職したエリート達です。
三輪さんは、なかなかおしゃべりで、先日も「先生の居酒屋に行きたい」と言うで、今日は朝からせっせと準備をして、お待ちしておりました。
先ずは、酪豆腐からどうぞ。
牛乳と葛粉を、練り上げて作りました。
旨だしをかけ、青ゆずのすりおろしをふり、ツルムラサキを添えました。
承知しましたと言いながら、華ちゃんは次の料理の盛り込みに追われています。
華ちゃん「秋の前菜の盛り合わせでございます。
三輪さんが召し上がられた残りは、後でお詰め合わせ致します。明日の朝にでも、奥さまと召し上がって下さいませ」。
三輪さん「会長から顧問になり、少しだけ楽になった頃、華ちゃんクラスの生徒になったら、「いや〜! 料理って楽しいですね〜〜」って、ハマりましたよ。
物づくりの楽しさと食べる喜びにハマって、調理道具も増えるばかりです」。
華ちゃん「あら? その割には、なかなか腕前は上がりませんね〜」笑笑
※三輪さんは世界的な著名人ですが、華ちゃんにとっては生徒ですから、ぞんざいな言葉使いで失礼しています。
次は、真鯛と甘エビのカルパッチョです。
パプリカのマリネを添えました。
僕も教室で分けてもらいました。
良い製品なのに、安価なことも気に入っています。
大衆が喜ぶ製品を、手軽な金額で売るということこそ、企業の本来の姿です。
我が社は近年高級路線に入り、道を間違えているのではないかと気になる時、教室の生徒諸君の言動や華ちゃん先生の言葉に、時々ハッとしますよ。
華ちゃん「大根と牛肉の煮物です。まだ大根が辛い季節ですが、華ちゃんの得意料理のひとつです」。
三輪さんはしばらく無言で召し上がっておられましたが、しばらくすると、「うっ! う、う、う〜〜」と嗚咽され、涙をポタポタと流されます。
お口に合いませんか?と聞く華ちゃんに、三輪さんが振り絞るように話を始めました。
「この煮物は、妻と同じ味つけです。
華ちゃん先生には、5年ほど前まで料理を習っていた、三輪啓子を覚えておられるでしょうか?
啓子は私の妻でしたが、3年前に亡くなりました。膵臓ガンでした」。
華ちゃん「えっ? 三輪啓子さんのことですか?
確かに三輪啓子さんという女性が、私が担当する「幸せレシピ」クラスに通って来てくれていました。上品で明るい性格でした。
何ですって? あなたの妻だった?
亡くなられたのですか?
突然にレッスンに来て頂けなくなったので、心配していたのです」。
華ちゃんは、オクラの胡麻マヨ和えをお出ししながら、驚きを隠せません。
三輪さん「啓子が作ってくれる料理は、忙しく過ごす私の救いでした。
ホテルの宴会の料理や、レストランや料亭の料理は心に残るものが少なかったです。大切な商談中の食事ですから。
しかし啓子が作ってくれる料理には、やれやれ家に帰ってきたという安心感の上に、愚痴も聞いてくれる妻との食事ということもあり、本当に美味しかった。
今、華ちゃんが作ってくれた煮物は、啓子も習った料理だったのでしょう。
まさに、啓子の味つけそのものでした。
啓子の味つけは、華ちゃん先生の味だったのですね。
思い出して、思わず泣けました。
啓子が亡くなって1か月くらい後に、僕はキッチンで啓子が大切にしていたレシピ見つけました。
そして意を決して、華ちゃん先生の生徒になったのです」。
華ちゃんは焼きナスのペンネを作って、お出しします。
うまい! うまい! 何てうまいんだ!!!
三輪さんの歓喜の声は、やがて再び嗚咽に代わります。華ちゃんも涙が止まりません。
庭の虫たちが、まるで三輪さんを励ますかのように、涼やかに鳴き続ける9月の夜です。
〜このお話はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません〜





